長野

<争点の現場>(3) 安保関連法 

2016年6月16日

◆義勇軍、国に見放された

 「私のように惨めな思いをする戦争は、二度としてはいけない」

 一九四五(昭和二十)年三月、十五歳で満蒙(まんもう)開拓義勇軍の一員として満州(中国東北部)に渡った、飯田市座光寺の湯沢政一さん(86)は二〇一三年から、中高生らに体験談を伝える「語り部」として活動している。

 軍歌を子守歌として育ち、帰ってきた兵隊さんの手柄話を聞くのが何よりの楽しみだった。いわば「志願」して大陸へ渡った。所属した三江義勇隊両角中隊は、県内出身の二百七十五人。「名簿を見ると十男とか九男とか、子だくさんだったり、両親がいなかったり。貧困家庭の出身者が大半だった」

 義勇隊は国から給料などの手当てはなく、自給自足だった。平時は鍬(くわ)を取り、戦争になれば鉄砲を構える生活だった。終戦の六日前、旧ソ連軍の満州侵攻では、武装して開拓団二千五百人を護衛した。頼みの関東軍(満州駐在の日本軍)の大半は一足先に満州を離れていた。「国からは見放された状態で、義務だけで権利がなかった義勇軍。哀れな存在だった」と振り返る。

 終戦後、旧ソ連の捕虜になったが、年端がいかずシベリア送りは免れた。捕虜は粗末とはいえ、食事が与えられたが、解放後は食料に事欠いた。

 両角中隊の宿舎はハルビンにあった日本人学校。窓ガラスはなく、氷点下二〇〜三〇度の寒さ。「夏服のまま、使役の仕事で失敬した南京袋を毛布替わりに寒さをしのいだ」

 四六年二月、ハルビンの紙問屋で仕事を得て、給金をもらって宿舎へ帰ったときのこと。座光寺時代から竹馬(ちくば)の友で同級生の高木金一さんが亡くなっていた。発疹チフスに倒れ、遺体は冷たく凍っていた。

 「高木は『湯沢が行くなら』と一緒に海を渡った。かわいそうなことをした」。添える花もなく、水で唇を湿らすことしかできなかった。高木さんら両角中隊の七十六人が栄養失調や病気のため、祖国に帰れなかった。

 湯沢さんは長年、義勇軍のことを家族に伝えていなかった。「生きて帰った者は会社を興して大きくしたり、村議長になったりと成功した者も多い。みんな長年、劣等感を持っていた」と打ち明ける。

 歴代政権が禁じてきた集団的自衛権行使を解禁する安保関連法が今年三月に施行された。「七十年以上続いた平和は、アメリカのおかげだとは理解している。戦争に巻き込まれる恐れが出るのは不安でならない」と語る。「法改正を主導した政治家や自衛隊幹部は、前線で銃を取らないだろう。義勇軍の時と同じ、惨めになるのは貧困家庭など国民の一部になるのは、身をもって体験している」

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