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紙面記事

<王国からの贈りもの>(4)留学、ハングリーな心を

守備陣をかわしゴールを目指す三浦知良。鮮やかなテクニックに「カズ・コール」が起こる=1989年7月3日、ブラジル・クリチバ市で(共同)

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 国際試合を控えると、日本の空港はサッカーファンでごった返す。イタリアから、イングランドから、ドイツから、身奇麗なスーツ姿の日本代表選手が時間差で帰国し、速歩でロビーを横切る。

 Jリーグの選手が次々と海外に移籍する時代。海外組は日本代表の半数を占める。

 20年前まで、海外に続く言葉は「移籍」ではなく「留学」だった。高校年代や高校卒業したての選手が練習生として武者修行に出向く。行き先の多くはブラジルだった。

 地球の裏側にはレベルの低い日本人を受け入れてくれる土壌があった。1900年代初頭から移り住んだ日本人が飢えや病気と闘いながら荒野を開拓し、子や孫は日系企業の進出や日本の経済協力の橋渡しをした。「ジャポネス ガランチード」という日本人の信頼性を保証する言葉が生まれるほど、現地で日系社会が地盤を築いていた。

 静岡学園高の元監督、井田勝通(72)は現地でマグロの仕入れをする静岡県の水産業者に名門サントスFCの日系人オーナーを紹介してもらい、留学生の世話を頼んだ。日本で先駆け、82年から10年間、部員を夏休みに留学させた。「日本人というだけでやさしくしてくれた。指導料は格安で、寮費もただだった」と懐かしむ。

 その後、留学制度を導入する国内チームや仲介業者が生まれ、ブラジル留学は一大ブームに発展する。留学からブラジルでプロ契約をつかんだ三浦知良(47)=横浜FC=が登場し、最盛期の90年代半ばには年間500人もの留学生がいたという説もある。

 もちろん急にブラジル人のようなテクニシャンになれるわけではない。鹿児島実業高2年の春休みに1カ月間留学したG大阪の日本代表、遠藤保仁(34)は「ブラジル人の練習姿勢や向上心を肌で感じ、プロの厳しさを知った」と振り返る。

 ブラジルでは男の子のほとんどがプロサッカー選手を夢見る。ただ、クラブチームでサッカーができるのは幼少期から選抜試験で才能を認められた者だけだ。小学生年代でもプレーを続けられる保証はなく、クラブに有望な新人が入れば誰かが放出される。

 「みんな貧しくて、道端で物売りをして練習場へのバス代を稼いでいた。そういう子でも練習後のミーティングで急にクビを告げられる」。小学5年の半年間、留学したJ1名古屋のU−20(20歳以下)日本代表、望月嶺臣(19)は当時を思い出し、顔をひきつらせた。

ブラジル留学で「プロの厳しさを知った」という遠藤は、日本代表の主力で活躍する=国立競技場で

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 裕福に育った日本人が「ハングリー精神」を手土産に帰国する。「スイッチが入ったように練習姿勢が変わり、県選抜にも入れなかった選手が、Jリーガーになったりした」と井田は振り返る。

 成功者は一握りだったが、留学帰りの選手たちはサッカー界を底上げした。中山雅史、森島寛晃、中沢佑二は若手のころブラジルで汗にまみれ、ワールドカップの舞台まで上り詰めた。現役代表では遠藤のほか、山口蛍(C大阪)、酒井宏樹(ハノーバー)が経験者だ。

 ブラジルで鍛えられた時代を経て、現在は練習生ではなく「戦力」として海外から誘われるようになった。イングランドなど欧州5大リーグの1部でプレーしている選手は14人。トップレベルでしか得られない肉体的強さや駆け引きを身に付け、さらなる代表の強化につなげている。

 (原田遼)=敬称略

 <日系ブラジル人> ブラジルに移住した日本人やその子孫。地方で困窮した農民らが国策で奨励され、1908年に第1回の移民団791人が入植。第2次世界大戦前まで19万人が移住した。当初はコーヒー園で奴隷同様の扱いを受けたが、農地を開拓し、野菜や綿の栽培で国内の農業生産を拡大させた。教育にも力を入れ、子孫は戦後のブラジルの政財界で活躍した。約150万人の日系人が住むとされる。