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北陸文化

【文学】日系文学の先駆け発掘

西田季子さんの短歌について調べ、「ポルトガル語訳をつけて、短歌という文化を残したいという情熱を感じる」と話す杉山欣也教授=金沢大角間キャンパスで

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金沢出身・ブラジル移民の歌人・西田季子さん

 一九二九年にブラジルに移民した金沢市生まれの女性歌人がいる。西田季子さん。三八年創刊でブラジルで短歌の普及に大きな役割を果たしている歌誌「椰子樹(やしじゅ)」同人の一人で、歌集「やまばと」を残した。女性としての自身の内面を見つめる理知的な歌風の一方、訪日後には望郷も詠んだ。ブラジル日系文学に関心を寄せ、文献を調べている金沢大の杉山欣也教授(日本近代文学)は、日本語からポルトガル語へと移行している日系文学の先駆けとして位置づける。 (松岡等)

歌集「やまばと」(杉山欣也教授提供)

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杉山欣也金沢大教授が調査

 杉山教授が西田さんの短歌を知ったのは二〇一六年、サンパウロに滞在中、サンパウロ文化福祉協会の移民関連資料室だった。歌集「やまばと」の中で「百万石のふるさとは秋」と、帰郷した際に詠んだ歌が目にとまった。

 「椰子樹」の記述などによると、西田さんは金沢市の旧加賀藩士の家系に生まれた。タイピストとして働いていた大阪で結婚し、一九二九年に夫の孝徳さんと共に大阪から移民船「ブエノスアイレス丸」でブラジルに渡ったことが分かっている。そのため、名簿などで西田さんは大阪出身と記載されているという。

 「椰子樹」は三八年の創刊。第二次大戦中はブラジルでは日本語が敵性語とされたため四一年に休刊。再び発行されたのは四七年の十二号で、この時期に西田さんが同人となっている。その後、五〇年代には選者にもなり、作歌は二〇〇一年まで続いた。〇七年に九十七歳で亡くなった際に追悼特集が組まれるなど、中心的な歌人の一人だった。女性としての自らの内面を見つめた知性的な歌風ながら、故郷を詠んだ歌に「郷愁」がにじむ。

 西田さん唯一の歌集「やまばと」には、全四百三十三首を収録。このうち第一部の六十七首は、一ページに一首づつ、日本語、ローマ字、ポルトガル語訳の三種類で掲載された。あとがきで西田さんはこう書いている。「晩年に至って歌集の出版を思い立ったのは、私のかかわった短歌という文芸作品がどのようなものであったのかということに、関心と興味を示す者が現れるかも知れない、というかすかな期待からである」

 訳者は「啄木歌集」をポルトガル語訳している八巻培夫(ますお)さん。世代を経る中で、日本語は話せても読むことができない人のためにローマ字読みを付しているところに、痛切さをみる。

 現在の日系ブラジル移民による文学を「日本語からポルトガル語に変容しつつある」と杉山教授。日伯のはざまに生まれる文学を、海水と真水が混ざる湖や川になぞらえて「<汽水域>文学」とし、西田さんの歌集について「最も古いバイリンガルの歌集ではないか」と指摘している。

西田季子さんの短歌

 人の群静かに離り野に来ればムダンサの馬車ゆれゆれ行けり

              ※「ムダンサ」は引っ越しの意

 マラリアの熱おさまれば起き出でて乱れし髪をととのえにけり

 幻のはたてはたてに現わるを愛とぞ信じて女は終わる

 交配を終わりし黍の吐く息の青さよ乳房のかすかな痛み

 堰切りし望郷の念に翔けて来しああ百万石のふるさとは秋

 犀川のしぐれの中の犀星碑「あんず花着け」「地よ早やに輝け」

 

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