トップ > 北陸中日新聞から > 北陸文化 > 記事一覧 > 4月の記事一覧 > 記事

ここから本文

北陸文化

【街の記憶 前田マリ】(46) 坂のこと

「五本松へ」

写真

上り下り こころのびのび

 奥卯辰山に健民公園ができたのは、昭和四十六年、元はゴルフ場だったところだ。

 ちょうど今の季節、あそこには、青くて大きな空があった。ごろんと寝ころがると、春のおひさまをたっぷり含んだ芝が、ふわりとあたたかかった。鼻から息を吸うと、食道をすっと通って、おへそのあたりがぐぐーっと鳴いた。私のはらわたも喜んでいるみたい。目を閉じて、それから芝の傾斜に身を任せて、くるっくるっ、くるくるくるくるっ、と、ローラーのように横になって転がった。私だけじゃない、同じことをする子供が、あっちにもこっちにも。長い冬の間、寒くてちぢこまっていたからだが、こころが、一気に解放された時だった。転がったあとは、大の字になりぐっと伸びをした。立ち上がって、ぽんと服をひとはたき。長い坂を今度は歩いて登るのだけど、ちっとも苦じゃなかった。くるっ、くるくるくる、は、この後二度も三度も続いた。少しすれば梅雨がやってくる、春の陽を浴びる嬉(うれ)しさに、子供は熱中したのだった。

 東山一丁目の私の家のそばに、観音坂と子来坂(こらいざか)がある。ふたつの坂はどちらも山へ続く。健民公園から家の近くまで広がる卯辰山に、私たちは親しみを覚えて、向山と呼んだり、夢香山とすてきな字をあてたり、私も通った馬場小学校は校歌に臥竜山と歌った。春に子来坂を上った先で土筆(つくし)や野いちごをよく摘んだ。毎週日曜日は、蓮如さんの近くに住む画家のアトリエで絵を描きはじめた。五歳の誕生日はまだ先の私だった。

 子来坂には老舗の料理旅館があり、坂の途中あたりに入り口が茶人好みの家もあった気がする。そこでふたつに分かれて、左は大きな敷地をもつ邸宅へ続いた。柵はなくとも誰でもいつでも入れそうもない、私道だったかもしれぬ。右の坂を上ったところにあるその家の門塀も開いたためしがなかった。向かいは五本松こと、摩利支天宝泉寺の石段である。蓮如さんの像ももうすぐみえるだろう。坂は、信仰の入り口でもあった。観音坂に四万六千日の観音院、東山二丁目を歩けば、さらに多くの寺院がみえた。季節の樹木や花や鳥や虫と出会い、陽にあたり風にふかれて、坂を上り、石段を踏みしめていると、迷いや邪念といったものが薄らいでゆくのだ。

 子来坂を少し登ったところには、バラックのような戸や廃材を寄せてつくった小屋に暮らすひともいたような。誰かが「ぼうくうごうのひと」と呼ぶのをきいたけれど、そこが戦時中、防空壕(ごう)だったのだろうか。

 雪の積もった冬の日曜日、人の行き来で踏み固められた子来坂をてっぺんから滑って下りた、今、思い出した。ビニール製の画板をお尻に敷いて、持ち手を股の間にしっかり握って、しゅーっと一気に。恐ろしいくらいスピードがでた。お転婆(てんば)どころじゃない、なんと向こう見ずな。これも一度きりじゃなかったのである。毎度ちぢこまっていたのは画板のなかの描いたばかりの絵だ。かわいそうに、悪いことをした。 (まえだ・まり=イラストレーター・画家、金沢・東山生まれ)

 

この記事を印刷する

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山
地方選挙

Search | 検索