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北陸文化

【街の記憶 前田マリ】(41) 包みのこと

「包みに触れて」

写真

自然素材 機能性と美

 くるりと経木(きょうぎ)を丸めて、漏斗のようにして底を持ち、中に入れたのは、照りのいい小女子(こうなご)の佃煮(つくだに)だったり、鮮やかな桜色のでんぶだったり。客の注文に応じて、木枠にガラスをはめた蓋(ふた)を少しずらして、その都度取り出す。量り売りである。最後に上の部分を折り曲げて、包みは完成だ。店主の慣れた手さばきは、小気味がよかった、観音町の食料品店。店先には、茹(ゆ)でたうどんやそばが、巻き簾(すだれ)の上に一玉ずつ並んでいたような。

 私が小さい時分は、最初から包んであるものは少なかった。だからなのだろうか、店の奥の棚に整列する缶詰が、なんだか近寄りがたく、いばった風(ふう)にもみえたりした、白桃や黄桃の。今よりうんと缶詰が、特別な品だった頃である。

 菓子を売る店でも、茶を売る店でも、私は店に入ってまず、店の匂いを楽しんだ。それから、店のひとの包む手元をながめるのが好きだった。しゅーっと紐(ひも)をかけたり、袋の口に茶箕(ちゃみ)をあてがい、しゃーっと茶葉を移し入れたりするさま。無駄のない一連の手の動きの際に発した音に、耳を傾けるのも、好きだった。そして、その店らしい完成された包みを受け取った時の嬉(うれ)しさといったら、格別だった。

 日常の暮らしの包みのことをあれこれ思っていたら、故郷の、なつかしい包みが、ひとつふたつ、またひとつと思い浮かんできたのである。紙や藁(わら)を使ったり、笹(ささ)や竹皮のもの、竹そのものを使ったもの、などなど。

 そもそもは、今日のような包む素材がない時代に生きたひとたちが考えた包みである。持ち運びしやすいよう、そしてなによりも品質を保つために、身近にある自然の素材を使ったものばかり。それらが時を経ても飽きられることなく、そこに新たに美しさも加わって意匠となった。

 子供の頃、父が私に贈ってくれたのは、くるみの粒に砂糖を衣掛けした菓子だった。包み紙のいくつかからは砂糖をほんのり紅く染めたものも透けてみえた。白いの紅いのが藁で編んだ籠に入ってかわいかったのである。細く編んだ藁の持ち手も付いて、私はゆらゆらと振ってみたりもした。

 包みをひらいて菓子を口にふくむ。「どんなひとが籠を編んだのかな。おうちは山のなかで…」ゆっくりと砂糖が溶けていく間、あの日、私はいろんな想像を巡らしたものだ。

 ひとつふたつと包みの記憶をたどっただけなのに、気持ちが安らいでいくのが、不思議である。記憶は、みえたことだけじゃなく、感触や音や匂いに味に、あのころふれあったひとたちの息遣い、そしてまだ出会えぬひとや風景までも連れてきたのである。

 (まえだ・まり=イラストレーター・画家、金沢・東山生まれ)※次回は12月1日

 

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