私の証言

伊勢湾台風60年

中日新聞は伊勢湾台風から60年を迎える今年、中部地方の皆さんが被災体験を振り返る「私の証言」を掲載します。あの時何があったのか、どう行動したのか。何が生死を分けたのか-。多くの経験談を集め、その記憶と教訓を次の時代へとつないでいきます。

伊勢湾台風

1959年9月26日午後6時すぎ、和歌山県・潮岬付近に上陸して本州を縦断。中部地方を中心に死者・行方不明者は5098人に上り、明治以降で最大の台風被害となった。名古屋市内の犠牲者は1800人を超えた。

「一人でも助けたかった」

捜索に当たった陸自隊員

大雨への警戒が報道されるたびに、愛知県小牧市の無職谷口進さん(81)は、60年前のあの悲惨な光景を思い出す。1959(昭和34)年9月、中部地方に甚大な被害をもたらした伊勢湾台風の際、陸上自衛隊の隊員として、被災者の救助や行方不明者の捜索に当たった。「一人でも早く助けたかった」。泥水に漬かる被災地を撮影した写真を見ながら、忘れまいと思い起こす。

「34・9・26 伊勢湾台風 災害出動」。古びたアルバムに、モノクロの写真が貼られている。水没した家屋近くを走る自衛隊の車両や、名古屋市の名城公園近くで飛行する陸上自衛隊のヘリが写る。約10枚の写真は、いずれも谷口さんが撮影した。「カメラが趣味で、活動中に内緒で撮りためた」と打ち明ける。谷口さんは福井県出身で、災害当時は入隊して2年目。59年6月に金沢市から愛知県守山市(現名古屋市守山区)の守山駐屯地に赴任したばかりだった。

台風が最接近した9月26日。大きな台風だと予報されていたため、谷口さんらは外出禁止を命じられ、出動を覚悟した。翌日から愛知県蟹江町や弥富町(現弥富市)で活動を始めたが被害情報が全くなく、「倒れた電柱の後片付けをしに行くつもりだった」。

現場に着くと、眼前に広がるのは水没した家の屋根の上に避難する黒山の人だかり。「まさか、これほどとは」。傷病者や子どもを避難させるため、自衛隊の小舟から「けがをしている人はいませんかー」と大声で叫んだ。舟には麦をまぜたおにぎりを積み、屋根にいる人々に配って回った。

つらかったのは、行方不明者の捜索だった。当時、自衛隊員が遺体を見つけると、笛を吹いて仲間に知らせるのが決まりだった。谷口さんは名古屋市南区の内田橋付近の捜索に当たったが、「あちこちからピーピーという音が鳴り響いた」。

さらに堤防から被災者が「娘のランドセルがここから出てきた。娘を捜して」とすがるように頼んできたという。貯木場から流れ出た材木が幾重にも重なり捜索は難航。遺体を見つけることはできなかったが、「一人でも早く見つけたい」と休憩する間も惜しんで捜し続けた。

伊勢湾台風では、暴風と高潮により死者・行方不明者合わせて5000人を超えた。60年を迎える今も、台風や豪雨災害の犠牲者はなくならない。谷口さんは「あれだけ大きな被害を出した伊勢湾台風の記憶や教訓を、今の時代にも伝えていけたら」と話す。

被災した場所

青色は浸水地域で、中部日本新聞縮刷版などを参照しました(網羅していません)。赤色は標高がゼロメートル以下の地域で、国土地理院の基盤地図情報(数値標高モデル)を使用しました。黒線は気象庁RSMC Best Track Dataによる伊勢湾台風の進路。

私の証言

「水来た」姉叫び2階へ

名古屋市南区鳴浜町

冨田博行さん

暗闇から聞こえた「助けて」という声を、今でも覚えています。

当時、名古屋市南区の白水小5年生。9月26日は夕方から雨が降りだしました。兄とテレビを見るため、木造2階の自宅に隣接する平屋にいましたが、雨風は強くなるばかり。午後8時半ごろ、自宅にいた姉が「水が来た、逃げなあかん!」と私たちに叫びました。既に辺りは浸水し、水圧で木戸が開きません。やっとのことで戸を開け、目の前にあった階段に飛び移り、兄と2階に駆け上がりました。

2階も浸水しましたが、大人の膝ほどの高さで止まり、私は布団置き場で寝ました。翌朝、水が多少引いた道路に白い物が浮かんでいて、よく見ると女性の遺体でした。私も2階に上がれなければ流されていたでしょう。日本は災害大国。自分だけは大丈夫、ということはあり得ません。

背中に女児 数十メートル流され

愛知県東海市名和町

浅井昇さん

名古屋市南区本星崎町の平屋の市営住宅に、家族7人で住んでいました。午後9時ごろ、近所の人に「貯木場が切れたので避難して」と言われ、外に出ると水が膝上まできていました。大事にしていた切手帳と学生服を持って逃げましたが、一気に水が押し寄せ家族全員が流されました。後に犠牲者の靴が積み上げられ「くつ塚」と呼ばれるようになった辺りでした。

背中に3歳くらいの知らない女の子がしがみつき、2人で数十メートル先の倉庫まで流されました。近くの電柱にも数人いましたが、一人ずつ水の中に落ちて、流されていきました。私は女の子と倉庫のひさしへ上り、一夜を明かしました。

翌日、家族とは避難先で合流できました。後に聞いた話では、住んでいた市営住宅で家族全員が助かったのは、私たちと、もう一世帯だけだったそうです。

突然濁流、首まで漬かる

岐阜県多治見市

中山京子さん

当時、三重県桑名市の土木会社に勤めていました。夕方から強い雨が降りだし、帰宅するのもやっとのことでしたが、午後7時ごろ、突然濁流が同市矢田の平屋の借家を襲いました。玄関の引き戸を突き破り、畳を突き上げ、辺り一面水浸しに。あっという間に首のところまで漬かりました。必死に水の中を進んで、隣の2階建ての大家さん宅に避難しました。

その間もどんどん水かさが増しました。「もうだめだ」と思った瞬間に引き潮になり、助かったとほっとしました。翌日はウソのような晴天になり、街の様子がよく分かりました。電柱に幼稚園児くらいの男の子がつかまりながら亡くなっていましたが、両足がもぎ取られていました。まさに地獄のような風景でした。私もあの夜、命を落としていたら、夫や娘、孫にも会えなかったでしょう。

家中浸水、屋根裏で一夜

愛知県弥富市神戸

児玉勝義さん

台風の日、午後8時すぎだったでしょうか。消防団員が家の外で「おーい、水が来るぞ」と呼び掛けて回っている声を聞きました。自宅の裏は、すぐ川です。早めに寝るつもりでしたが、念のため米などを屋根裏に運ぶことにしました。

しばらくして、家の中が浸水しました。床から1.5メートルほどの高さまで来たでしょうか。室内のはしごを登って難を逃れ、屋根裏で一夜を過ごしました。

快晴だった翌日。辺り一面に漬かった水が、干潮で少し引いたときのことです。庭のツツジに、小学生くらいの女の子が引っかかっているのを見つけました。水を大量に飲み、おなかが膨れ上がった遺体でした。

消防団員の呼び掛けがなければ、私も死んでいたかもしれません。早めに情報に接し、対策を取ることが大切なのだと思います。

空腹に染みた、釜のお焦げ

名古屋市南区道徳

杉浦秀昭さん

当時9歳で、名古屋市南区の道徳地区に住んでいました。9月26日は夕方から豪雨。停電し、2階の一室に家族や下宿人で集まりました。避難途中の見知らぬ人々や同級生らもやってきて、気付けば十数人に。中には、生後まもない赤ちゃんを抱いた母親もいました。

そうこうしているうちに、周囲はみるみる増水。「このままだと屋根に上るしかない」と思いましたが、水は階段1段分を残して止まり、命拾いしました。

翌日、辺りは「海」になりました。家のガラスは割れ、天井板はめくれあがり、無残な姿に。さらに食料がなく、空腹でした。避難してきた幼なじみの父親が泳いで自宅に戻り、台所付近に浮かんでいたお釜を持ってきてくれました。その縁に張り付いていたご飯のお焦げが、なんとうまかったことか。今でも忘れられない味です。

荒天の中、作業員に出前

愛知県豊川市御津町赤根

河村秀夫さん

当時は中学を出て蒲郡駅前のすし店に住み込みで働き始めたころ。昼前から風が強く、暗雲が垂れ込めていました。夕方ますます雨風が強まり、店主が「これではお客も来ない、カンバンだ」と言ったところに出前の注文が入りました。

近くの港の荷揚げ場に積まれた石炭や木材を守るため、招集された作業員の夜食。50人前ほどを詰めた岡持ちを200メートル先の事務所へ届けるのに、自転車のハンドルと荷台を3人がかりで押さえて行きました。

その後、店内はテーブルを立てて押さえていたガラス戸が割れてぐちゃぐちゃに。翌日港を見に行くと、作業員の努力もむなしく石炭も木材も全部流されていました。観光名所の竹島では橋の一部が崩落しました。今でも災害が怖く、台風情報には気を付けています。

長女背負い避難、はだしに

愛知県碧南市川口町

河江良子さん

当時32歳。夕方ごろから家族五人で、自宅に近い同じ岐阜出身の入植者の家に避難していました。風が強くなってガラス窓が割れないよう、皆で座布団で押さえたんです。そのうち勝手口の排水口から「ボコボコボコ」って水が湧き出してきた。「ほら、水が入ってきた」と叫んだ覚えがありますよ。

6歳だった長女を急いでひもで縛って背負い、堤防に避難したんですが、この時、草履が脱げ落ちて。そこからは、はだしのまま矢作川の堤防を2キロほど上流に向かって、歩いて避難しました。

足の裏が痛いとか、そんな記憶はないねえ。必死だったんだろうね。途中、飛んできたトタンに当たって血を流しているおばさんもいたけど、この一帯で亡くなった人がいなかったのは、ほんとによかったです。

校庭に棺おけ、異常な光景

愛知県岡崎市樫山町

鈴木勝男さん

高校を卒業し、愛知県職員になって2年目。東海市名和町の上野浄水場建設に携わっていました。

当日は休みで岡崎の自宅にいて、夕方から雨風が強まりました。雨戸がなかった東側の窓から風が吹き込み、かやぶき屋根の東側がめくれ上がってしまい、室内はびしょぬれ。家族5人と風が収まるのを待つのみでした。

翌朝、仕事場(上野浄水場)が心配になり、オートバイで国道1号を走りました。現場にあった木造の詰め所は跡形もない状態。ブルドーザー2台だけが残っていました。

1週間ほどでしょうか、天白川に架かる橋の歩道には水膨れした遺体がたくさんありました。1カ月くらいの間は、通勤電車の窓から学校の校庭に棺おけが並んでいるのが見えました。異常な光景に顔を背けることしかできませんでした。

幼子3人抱え眠れぬ一夜

愛知県津島市西愛宕町

水谷シウさん

あの日は主人の31歳の誕生日でした。お祝いの夕食の後、3人の子どもを寝かしつけたころ、風と雨の音がすごく強くなってきました。午後9時ごろでしたでしょうか。すごい音を立てて屋根瓦が吹き飛び、雨が家の中に入ってきたのを覚えています。

子どもは6歳、3歳、0歳と小さく、逃げるのは難しい。その日は祈るような気持ちで、そのまま自宅で一晩を過ごし、ほとんど寝られませんでした。

翌日以降、周辺の道路や自宅が水に漬かりました。その後、水位が上がり、最も高いときで1メートルほど。親戚の家へ避難し、自宅に戻ったのは2カ月ほど後。その後は自宅の掃除に明け暮れ、疲れがたまってしまい、病院へ通いました。

もしもの時にどこに逃げるのか、あらかじめ決めておくことが大切です。

天井の土壁落ち逃げた

愛知県田原市片浜町

小林一弘さん

当時は中学1年で、今の住所にあった自宅の母屋に父母、弟といました。天井の土壁が落ちてきたので、母屋がつぶれてしまうのではと危機感を抱き、外へ出ました。

小枝が宙に舞うほど強い風。夜なのに稲光で不気味なほど明るかった。10メートルほど離れた納屋へ逃げ、積んであった稲わらの間に入って身を守りました。気圧の低さからか、耳がキーンと痛くなりました。竜巻に吸い込まれていくような感じで体が浮く錯覚があり、眠ってしまいました。

「東のもんは、生きておるかん!」。西隣に住む女性の声が聞こえ、外に出ると、朝日がまぶしかった。「助かった」と思いました。

2階建ての母屋の1階部分が風でつぶれ、平屋のように。災害時には適切に判断できるよう、自分の意思や直感を大切にしています。

ドラム缶が飛ぶような音

愛知県知多市日長台

南部恵美子さん

当時は19歳。名古屋市中川区柳島町に住んでいました。同市中区の本の卸売会社に勤めており、その日は夕方前に「早く帰れ」と言われ、市電で帰りました。でも尾頭橋駅からは市電がなく、刺さるような雨の中、1時間ほどかけて自宅まで歩きました。

平屋の自宅には母と妹弟がいました。屋根の上を大きなドラム缶が飛んでいくような大きな音がして、柱もぎしぎしと揺れていました。雨水が畳を押し上げ、床上まで来ました。

私は「うちだけじゃない。頑張れ」と叫ぶ母と一緒に、妹と弟を押し入れの長持ちの上に休ませ、屋根裏へと生活用品を運びました。

翌朝、屋根から辺りを見渡すと一面は水。ニワトリやげたが浮き、あちこちに畳を焼く煙が漂っていました。災害時は行政に頼るのでなく、自分の身は自分で守るべきだと学びました。

濁流と一緒に人が家に

愛知県春日井市瑞穂通

長縄加津子さん

当時は結婚前で、三重県桑名市伝馬町の木造2階建てに兄夫婦と住み、台風の日は、雨戸を閉めて家の中でじっとしていました。

すると、玄関からドンドンと扉を強くたたく音が聞こえ、近づくと「助けてくれ」との声もしました。

「そんなにたたくとガラス戸が壊れるから」と引き戸を開けた途端、隣のうどん店の女性店員と見知らぬ人が、濁流と一緒に家の中へと流れ込んできました。

必死になって2階まで階段を上ると、2階の床ぎりぎりまで水が来て、生きた心地がしませんでした。

水が引き、1階にあった婚礼前の衣装や思い出の品は全て駄目になりましたが、命があって本当によかった。当時は防災の意識はなく、なすすべもありませんでしたが、今は「備えあれば憂いなし」と心から思います。

泥だらけの遺体、目背けた

愛知県東浦町緒川

野村みち子さん

愛知県半田市の銀座本町に住んでいました。小学校が途中下校になったので姉や妹、弟と2階や土蔵で過ごし、親に呼ばれて下へおりると、泥水が腰より上まできていました。父に背負われ、家族で逃げました。

火事が起き、夜なのに異常に明るい。雨は痛いほど強く、火の粉も降ってきました。鉄筋コンクリートの建物に逃げ込みましたが、誰かが「こんな所じゃ蒸し焼きになる」と。何とか逃げ着いた国鉄半田駅の貨車の中で、台風が過ぎるのを待ちました。

翌日、近くの橋のたもとにテントが張られ、泥だらけの遺体が並んでいました。あまりの光景にすぐ帰りました。途中下校を「遊べるね」と喜び合った同学年の子も亡くなったと聞きました。小学校で児童全員が無事だった学級は、私の組ともう一組だけ。今でも忘れられない日です。

船のように家が揺れた

愛知県刈谷市井ケ谷町

近藤昌昭さん

祖父や父の背中を追って指物師さしものしをしており、台風当日も刈谷市内の自宅から1.5キロほど離れた仕事場にいました。夜7時ごろには、バラックの工場の土台が風で持ち上がるような揺れ方を始めました。

「これは危ない」と帰り始め、木々が揺れて横なぐりの雨が降る中、運転できずバイクを必死に引いて歩きました。

帰宅すると、母と5人の弟妹が家で待っていました。建て替えたばかりの家で比較的丈夫だったので、隣の人も避難してきました。それでも船のように家が揺れて、とても怖かった。2階の戸が1枚飛び、吹き込んだ風が勢いで屋根の瓦をバラバラと落としたのか、翌日には、瓦が高さ1メートル以上に積み上がっていました。

皆無事でしたが、テレビもラジオも受信できず、情報が入らない不安と恐怖は忘れません。

火葬待つ無数の棺 衝撃

名古屋市天白区八事山

水谷勝彦さん

当時、名古屋市中区新栄で暮らしていました。勤めていた八事の自動車学校から退社するように言われ、帰宅したのが午後2時ごろ。風雨が強くなってきた頃でした。

すぐに2階南側にある4、5枚の雨戸を閉めましたが、しばらくして「ゴォー」という音とともに強風が吹き、押し破られそうになりました。兄と物干しざおで押さえましたが、1枚の雨戸が外れ猛烈な風雨が屋内に入ってきたのです。

1時間ほど、ずぶぬれになりながら、他の雨戸を守ろうと必死でした。部屋は10センチくらい浸水し、壁土も崩れ、後始末に1カ月くらいかかりましたね。

2、3日後、八事斎場の近くへ行くと、棺(ひつぎ)が斎場の入り口から数百メートルにわたって、道路の両側に5段くらい積まれていました。私は命が救われただけ、幸せだと感じました。

避難が5分遅れてたら…

名古屋市南区三吉町

山下かをるさん

天白川近くの南区元柴田東町の借家に住んでいました。勤め先から帰宅した午後4時ごろ、ガラスがガタガタ揺れるようになり、歩いて10分ほどの柴田小学校に避難しました。

学校1階の土間でしばらく待機していると、男性の「堤防が切れた」との大声が聞こえました。慌てて2階に上がり外を見ると、濁流とともに次々と家が流されていくところでした。屋根の上で懐中電灯を振り上げながら、「助けて」と叫んでいる人も一人ではありません。

翌朝、流木とともに、おびただしい遺体が浮かんでいました。自宅はめちゃくちゃで、近所の人もたくさん亡くなりました。避難が5分遅れていたら、私も巻き込まれていました。仕事に出ていた夫も3日後くらいに無事再会できました。運が良かったと思います。

「風が呼吸」恐怖の初体験

岐阜県美濃加茂市

水谷敬さん

当時私は小学五年生で、木曽川に近い美濃加茂市太田町に住んでいました。夜半に急に風が強くなり、家の土壁をドーン、ドーンと打ち始めました。ぐーっと吹き付けたり、すっと弱まったり。父親と一緒に両手で壁を支えながら、風が呼吸するのを初めて体験しました。

雨で壁の染みもどんどん広がり、風息かざいきが最大になったと思いきや、壁が崩れ落ちてきました。父親が急いで畳と床板を外して、壁にくぎで打ち付けました。間もなく雨風が静かになり、「助かった」と倒れ込むように寝てしまいました。

今住んでいる下米田地区は、山に挟まれているので風の通り道となり倒壊した家も多かったようです。台風はなくなりません。土地の特徴を知り、それに応じた減災対策を考えていかないといけないと思います。

被災者に店の菓子配った

名古屋市守山区川東山

岸上誠子さん

あの時、私は「ペコちゃん」の不二家に勤めていました。忘れもしない台風明けの9月27日朝。自宅があった守山区から中心部の広小路通に面した店に出勤すると、泥まみれの衣服で店の前を通り過ぎていく人が大勢いました。中にははだしや半裸の人も。台風で被災して、親戚などの家に身を寄せるため名古屋駅方面へ向かっていた人が多かったのでしょう。

店長から「倉庫にある在庫品を皆さまにお渡ししなさい」と言われ、箱に入ったクッキーやキャンディーを配りました。みなさん、お礼を言うものの口数は少なく、うつろな目で放心状態のように見えました。小さなお子さんを連れた親御さんもいて、気の毒で仕方ありませんでした。

災害時は、助け合うことが大事になると思います。明日はわが身。気を引き締めていきます。