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【スポーツ】

満薗文博が伝える小出義雄さんへの思い 短期連載を始めるにあたり

2019年7月18日 紙面から

昨年末、小出さんとの食事会で一緒に写真に収まる筆者

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 4月24日、長距離・マラソン界の名伯楽、小出義雄さんが80歳で逝ってから2カ月半余りが過ぎた。

 晩年の小出さんは、入退院を繰り返す中、時には本紙の求めに応じ、時には自ら「暇だからおいでよ」と連絡してきて“閑談”を求めた。しかし、今思うと、それは“閑談”などではなく、小出さん流の芝居で、真意は「私の言葉をのこしてほしい」という意思の表れだったと気が付いた。

 昨年、年の瀬の12月26日、佐倉アスリート倶楽部で小出さんは長時間話した。場所を変えた地元のレストランでも話は続いた。私以外に同席したのは、小出さんの長女で、倶楽部のスタッフ由子さん、それに、かつて本紙が長期連載した「小出ランニング・アカデミー」の取材を続けたニュースセンター・大塚浩雄部長だった。気の置けない者たちを相手に、その日、小出さんが、熱弁したのは一貫して「未来を見なさい。そして夢を持ちなさい」だった。

 3月10日に行われた名古屋ウィメンズマラソンが、小出さんが公の場に姿を現した最後の日になった。初マラソンに挑む、教え子の和久夢来(ユニバーサルエンターテインメント、当時23歳)に寄り添った。小出さんはひと月前は「2時間40分を切れるかな」と言い、日を追うにつれ「37分かな」「34分かな」と、予想タイムを上方修正していた。和久は、降りしきる雨の中、2時間33分37秒で走りきった。初マラソンを終えた和久は「ありがとうございました。監督、来年はここでもっと速く走りたい。もっともっと教えてください」と涙を流した。小出さんは笑顔で返した。「いいよ、やるか。教えるよ」。夢来と書いて「みらい」と読ませる。「未来を見なさい。そして夢を持ちなさい」。くしくも、小出さんが繰り返した言葉が、そのまま名前に入っている。病をおして、名古屋に駆けつけた小出さんの意思は、マラソンを走り始めた和久の心に強く残ったはずである。

 小出さんと最後に会ったのは、亡くなる1カ月余り前の3月20日。内臓を病む小出さんは、その日は体調がよかったのか、倶楽部で速射砲のように話した。ここでも中身は「未来を見なさい。夢を持ちなさい」で一貫していた。長時間話し込んだ後で、翌々日から長めの旅に出ることを伝えて倶楽部を後にした。しかし、その後で、驚くようなことが起きた。私は、取材を終えると、京成佐倉駅近くの居酒屋で、メモを読み返しつつ、喉を潤すことが常だった。その日も足を運んだ。だが、いつもと違った。しばらくすると、なんと別れたばかりの小出さんが現れたのである。「よう、やっぱりいたね」と言うと、再び「未来を見なさい。夢を持ちなさい」が始まった。私は酒、小出さんはお茶だった。病の身で、私を追い掛けてまで小出さんは「のこす言葉」を、もっと伝えたかったのだ。その日が、30年に及んだ小出さんとの最後になった。

 小出さんが、晩年に語ったこと、かつて活動全盛期に発した言葉を遺すのは、残された者の務めだと、強く思う。

<満薗文博(みつぞの・ふみひろ)> 1950(昭和25)年生まれ、鹿児島県いちき串木野市出身の69歳。鹿児島大時代まで陸上競技部所属。東京中日スポーツ報道部長、同編集委員を経てフリーのスポーツジャーナリストに。小出義雄さんとの交流は92年バルセロナ五輪前からで30年に及んだ。小出さん関連の著書に「小出義雄夢に駈ける」(小学館文庫)、執筆協力作品に「小出義雄監督の人育て術」(小出義雄著・二見書房)、「ゴールへ駆けたガキ大将」(小出義雄著・東京新聞)がある。

 

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