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【芸能・社会】

ジャニー列伝(2) アメリカンドリームは幻に

2019年7月12日 紙面から

 ジャニーさんは1966年、彼らをアメリカに武者修行に連れて行く。オープンカーでロサンゼルスのビバリーヒルズを走っているとき、偶然にも飯野おさみがビング・クロスビーを発見。「日本から来た」とあいさつすると、クロスビーからスタジオに招待された。

 現地にルーツを置くジャニーさんの人脈と巧みなプレゼンテーションが、若武者たちの夢を膨らませていく。以降も「モンキーズ」やクリス・モンゴメリらと出会い、ジャニーズは現地のテレビ番組に多数出演していた。

 そんな彼らに目を付けたのが、バリー・ディボーソン。名曲「悲しき雨音」を手掛けた敏腕プロデューサーだ。ワーナー・ブラザースとの契約が決まっていたジャニーズに、バリーはずっと温めていた名曲「Never My Love」を歌わせることを決意。全米デビューというレールが敷かれたのだった。

 しかし、予定していた3カ月の滞在期間を過ぎてしまい、4カ月を迎えたところで強制帰国となってしまう。アメリカンドリームは幻となり、傷心して帰国した4人は衝撃の事実を知る。「Never My Love」を代わりに歌ったロックバンド「アソシエーション」が全米1位を獲得したのだった。

 そして、その4カ月の間に日本ではグループサウンズ(GS)が頭角を現していた。「歌って踊れる美少年」たちへの注目度は薄れ、ジャニーズはほどなくして解散する。

 ジャニーさんは次の一手を打つ。67年に結成した「フォーリーブス」を「日劇ウェスタンカーニバル」でGSグループと積極的に共演させた。楽器を持たない斬新なGSグループに、アイドルという要素が加わり、あっという間に人気を集めた。GSブームが去ると、都倉俊一さんとタッグを組んでソウルミュージックに方向転換。ジャニーさんは時代の流れをみながら男性アイドル文化をうまく融合させる天才だった。

 

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