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【ドラニュース】

個を捨て中日だけを愛したのは高木守道さんだけ…今こそ「10・8」を呼び込んだ手腕をクローズアップしたい

2020年1月19日 1時3分

10.8決戦でベンチから戦況を見つめる高木守道監督=1994年、ナゴヤ球場で

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 中日は18日、球団OBで元監督の高木守道さんが17日午前4時3分に急性心不全で死去したと発表した。78歳だった。葬儀・告別式は家族葬で行う。

【歴代番記者が語る高木守道さんの思い出】

 東京ドーム裏にあったホテルの部屋に高木監督を訪ねたのは1994年8月下旬の深夜だった。探ろうとしたのは去就の感触。3年契約の最終年だった。

 「来年? 球団社長から辞めるように言われているもの。どうしようもないじゃない」

 契約更新しない旨を通告されたという。高木さんは真正面からぶつかればウソをつかない誠実な人だった。となれば星野さんの復帰、特ダネだ。だが、悩んだ末に記事化を見送った。他紙に抜かれる危険性はあるが、優勝が完全に消えるまで待つのが筋だと思った。この判断が正しかったかどうかは今も分からない。

 結局、書くタイミングを逸した。中日は反撃を開始し、高木監督は9月27日に「優勝してやめれば一番いいんじゃないの? 有終の美を飾るためにやってきた」と担当記者の前で公言した。戦っているさなかに次期監督を決められたことに対する不満が手に取るように分かった。

 そして「10・8」として語り継がれる巨人との同率首位決戦を迎える。ご存じの通りエース級を投入した巨人の長嶋さんに対し、普段着野球として通常の継投をした高木さんは痛烈な批判を浴びることになる。

 不幸だったのは、この後希望通りの辞任が許されず、仕切り直しができなかったこと。すでに星野さんは辞退会見を開いている。事実上の次期監督が控え、選手をまとめにくい状況をわかっていながら高木さんは続投した。意志を貫けばチームは空中分解するからだった。

 翌年の途中休養により、決戦まで持ち込んだ手腕は評価されることなく、負の部分だけがクローズアップされ続けた。そういう意味では非運で、悲劇の将だったが、ここまで個を捨て、中日だけを愛した人を筆者はほかに知らない。(第1次政権担当・増田護)

 

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