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【ボクの思い出STADIUM】

川崎球場

2016年10月5日 紙面から

 1988(昭和63)年10月19日。ロッテと近鉄のダブルヘッダーは「10.19」と呼ばれ、今なお名勝負として語り継がれている。その舞台となったのが川崎球場だ。ペナントの行方を決めた運命の本塁打。打たれた阿波野秀幸(52)=巨人3軍投手コーチ=と、打った高沢秀昭(58)=マリーンズ・アカデミーテクニカルコーチ=が、28年前の大勝負を語った。 (文中敬称略)

1988年10月19日

すさまじい熱気

満員札止めで球場の外にもファンがあふれかえる=1988年10月19日、川崎球場で

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 閑古鳥が鳴くと言われた川崎球場も、あの日ばかりは様相が違った。「10.19」。すさまじい熱気に包まれた。

 近鉄は残り2試合でマジック2。つまりダブルヘッダー連勝が優勝の絶対条件だった。それ以外は全日程を終えていた西武の4連覇が決まる。そんな2試合で、命運を握る場面を任されたのが、エース・阿波野だ。17日の阪急戦(西宮)での120球完投敗戦から中1日。先発の柱として14勝を挙げていた2年目左腕は、第1試合から過酷なマウンドに上がる。

 1点勝ち越した直後の9回無死一塁、打者・山本功児のカウントが2ボール0ストライクとなったところで出番が来た。抑えの吉井理人が先頭打者に四球を出した際、判定にエキサイト。山本のところでも興奮が収まらず、監督の仰木彬がたまらず交代を告げた。

過酷場面で登板

ロッテ−近鉄 ダブルヘッダー第2試合の8回裏1死、高沢(奥)に同点ソロを浴びガックリとうなだれる阿波野

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 「準備はしてたけど、イメージは全然違った。2ボールからリリーフなんて見たことない」。ダブルヘッダーの第1試合は9回打ち切りというのが当時の規定。追いつかれた瞬間に優勝は消える。2死を取ったが、満塁に…。最後は得意のスクリューボールで森田芳彦を三振に仕留め、夢をつないだ。

 「これで次も勢いに乗っていける」と阿波野は感じていた。しかし、第2試合は悲しい結末を迎える。1点勝ち越した直後の8回、連投のマウンドに送り出された阿波野に、ロッテの4番・高沢が立ちはだかった。1死。フルカウントからの6球目、真ん中低めのスクリューをすくい上げると、左翼席へ14号同点ソロが吸い込まれた。

 阿波野はあらためて勝負の1球を振り返る。捕手・山下和彦のサインはストレート。首を振ったことにも自分なりの根拠はあった。

 「サイン通りに投げていたらどうなったんだろうという過去への興味はあるけど、スクリューはあの日、調子の良かったボール。あの打席で(2、3球目に)2度空振りも取って、スクリューなら本塁打にはならないだろうと思った」

打ち損じ狙った

 ただ、打たれた球は空振りさせた2球より若干高かった。もう少し低く投げていればとの問いには、こう答えた。「高沢さんが年間30本塁打もする打者ならもう少し低く狙っている。だがアベレージヒッター。ヒットも四球も一緒。だから、ストライクゾーンに近いところで打ち損じを狙って投げた」。そして、ポツリとこう言った。「ちょっと低い球を下から運ぶ打ち方だった。読み負けでしょうね」と。

狙ってなかった

 だが、高沢は「スクリューを狙ったわけではない」と首を振った。「僕のバッティングスタイルは、いつも真ん中やや外寄りの真っすぐに合わせている。あの時も真っすぐをライト方向へ打とうと思って待っていた。そうすればボールを長く見ることができ、落ちたり逃げたりする変化球にも合わせやすい。6球目も外へ沈んでいった球がバットの先に当たり、ヘッドがうまくかえった」。狙い打ちではないと言う高沢は、直前の5球目を大きなポイントとして挙げた。

首位打者を確定

 2−2からの5球目、内角高めのスライダーがわずかに外れた。「あの球は頭の中にイメージしていなくてビックリした。僕の打ち方だと内への球には弱い。あれがストライクだったら見逃しか空振り三振だったかも」。さらにはこの試合の第2打席で左前打を放ったことも、もう一つのポイントになっていた。

 高沢は阪急・松永浩美と首位打者争いをしていた。18日終了時で打率3割2分8厘の高沢が1位で、2位の松永は3割2分3厘。阪急の残り3試合はすべてロッテ戦だったから、高沢が「10.19」を終えて松永を上回っていたら事実上、首位打者が確定する。リードを保つリミットが6打数無安打だった。

 第1試合は3打数無安打。そして第2試合、もしこの打席でも倒れていたら、第3打席(凡退)を終えたところで退いていたはずだ。本塁打を打った8回の打席は、あるいはなかった…。

野球人生の財産

 勝負のアヤ、運命の糸。多くの人の記憶に残る本塁打のおかげで「今でも『あの近鉄戦の高沢さん』ってよく言われるんですよ」。高沢はちょっぴり照れくさそうにしつつ、「僕の野球人生が凝縮された試合だったと思う」と語った。「10.19」が財産なのは阿波野も同じだ。

 「僕は勝敗を握るところで2度投げ、(2試合目は)打たれた結果が残っている。でもその後の野球人生や指導者として1球の重みを考えたら、体験している強みになっていると思います」

 ファンの胸を打った名勝負。野球場として役目を終えた今も、この舞台を全国の野球ファンが訪れるという。 (井上洋一)

10.19VTR

(左)ダブルヘッダー第1試合の9回表2死、代打梨田が中前タイムリーを放ち生還した2走鈴木(44)に飛びつき祝福する中西コーチ (右)土壇場の延長戦も時間切れ引き分け、ベンチで肩を落とす仰木監督(左端)ら近鉄ナイン

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 第1試合は午後3時開始。近鉄は同点の9回、1死二塁から鈴木貴久が右前打を放つも、代走の佐藤純一が憤死。万事休すかと思われたが、代打・梨田昌孝の中前打で勝ち越した。

 終了から23分後の午後6時44分に第2試合開始。近鉄は7回に吹石徳一、真喜志康永のソロ2発で、8回にもブライアントのソロで再び勝ち越したが、いずれも直後に追いつかれた。9回裏はロッテ監督の有藤道世が判定に9分間の猛抗議。近鉄が10回の攻撃を終えた時点で3時間57分。当時は4時間を超えて新しい回に入らない規定で、事実上優勝が消滅した。それでも裏を抑え、午後10時56分に試合終了。

中学1年・井端弘和もスタンドで観戦

 「10.19」は、現巨人内野守備走塁コーチで当時中学1年生だった井端弘和もスタンドで観戦していた。家が川崎球場のすぐ近くで、ロッテのファンクラブ会員だった。「お菓子を送ってきてくれるから、友達もみんな入っていました。川崎球場の内野自由席が全試合無料で入れて、10.19も第2試合から行きました」。小学6年生の時には「少年野球の大会があって、レフトスタンドにサヨナラ3ランを打ったんですよ」と思い出を語っていた。

【アラカルト】川崎球場

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 ▼所在地 川崎市川崎区富士見2−1−9

 ▼開場 1952(昭和27)年4月3日。初のプロ野球公式戦として東急−大映を開催

 ▼規模 両翼90メートル、中堅120メートル、収容人員3万人

 ▼本拠球団 高橋ユニオンズ(54〜56年)、大洋(55〜77年)、ロッテ(78〜91年)

 ▼一本足 62年7月1日の大洋とのダブルヘッダー第1試合で、巨人・王貞治が放った通算47本目が、一本足打法での初本塁打

(左)川崎球場のさよならセレモニーで子供たちによって作られた「アリガトウ」の人文字=2000年3月、中日新聞社ヘリ「わかづる」から撮影(右)右手中央に位置するのが富士通スタジアム川崎。青いスタンドが陽光にきらめく=今年8月、中日新聞社ヘリ「まなづる」から撮影

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 ▼フェンス激突 77年4月29日の大洋戦で、阪神・佐野仙好が飛球を追った際にコンクリートの左中間フェンスに激突し、頭蓋骨を陥没骨折。これがラバーフェンス普及のきっかけに

 ▼3000安打 80年5月28日の阪急戦で、ロッテ・張本勲が6回、山口高志から右翼席に本塁打を放ち、史上初の3000安打を達成

 ▼現在 92年7月4日のロッテ−近鉄が最後の1軍公式戦。00年4月以降に大規模改修し、昨年4月からは川崎市所有、川崎フロンターレが運営する「富士通スタジアム川崎」として、アメリカンフットボールなどスポーツ大会を開催

【回想録】関係者もとりこにした 球場内ラーメン店の味

閑古鳥が鳴いていた頃の川崎球場=1989年4月ごろ撮影

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 ガラガラのスタンドは、テレビの珍プレー番組でご記憶の方も多いはず。試合そっちのけでカップルが熱いキスをしたり、傾斜を利用して流しそうめんをする観客の姿が、番組で流された。東京中日スポーツニュースセンター部長の大塚浩雄は、西武担当をしていた時代にこんな場面を目撃した。

 「試合中にライトスタンドでお客さんがキャッチボールをしていたんだけど、ボールが誤ってグラウンドに入ってしまい、それを選手が拾って投げ返していた」。そんなのどかな光景とともに、忘れられないのが、球場内のラーメン店。ファン、選手、関係者ら大勢がとりこになったという。大塚も「普通の中華そばなんだけど、とにかくうまかったなぁ」としみじみ話した。

(次回は11月2日掲載)

 

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