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【ボクの思い出STADIUM】

平和台球場

2016年2月17日 紙面から

日本シリーズ第5戦西鉄−中日杉下茂は前日に続き先発し、完投勝利で日本一に王手をかける=1954年11月4日、平和台球場で

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 西鉄ライオンズの「野武士軍団」が闊歩(かっぽ)したのが平和台野球場だ。熱狂的なファンが多く、何度となく暴発。そんな球場で、1954(昭和29)年に中日は初めての日本シリーズを戦った。とりわけ、2勝2敗で迎えた第5戦はシリーズの行方を左右する天王山だった。エースはなぜ連投したのか。杉下茂(90)が語る。 (文中敬称略)

1954年日本シリーズ第5戦

エースは「その気」

 まさに「命懸けの完投勝利」だった。天知俊一監督率いる中日が、悲願のリーグ優勝を果たした54年。西鉄との日本シリーズに臨んだ。中日スタヂアムでの1、2戦を制したが、勇躍乗り込んだ敵地では知将・三原脩率いる西鉄の逆襲を許した。3、4戦と連続零封負けでタイに。意気消沈し、旅館へと引き揚げる11月3日の車中での会話を、杉下は鮮明に記憶している。

第5戦終了後の東上の車中で第6戦をどう戦うかと語り合う中日の天知俊一監督(右)と杉下=1954年11月5日

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 「帰りのバスは自分の前に天知監督が座っていたんだよ。監督は『このままじゃ勝てないね』って言うから『だったらあしたも放りますよ』と言ったんだ」

 第1戦が133球完投、第2戦は救援で35球、中2日での第4戦は102球で完投負け。すでに第5戦の先発は空谷泰と発表されていたが、それを覆してでも投げるというエースの決意表明だった。

野手陣の願い却下

 ところが老獪(ろうかい)な天知は、杉下には「お、そうか」と答えながら、旅館では違う態度を取っていた。夕食後、主将の服部受弘以下、西沢道夫、児玉利一、野口明といった主力野手が、直談判するために天知の部屋に押しかけた。「あしたもスギ(杉下)に投げさせてください」と頼んできた。

 「きょう、スギは完投しているし、シーズン中からずっときているからもうダメだよ」

 はねつけたが、野手も折れない。仕方ないなと言わんばかりに、天知は「それならスギを呼んで話をせい」と伝えた。天知は杉下の思いをすでに知っている。ふがいない野手が頭を下げる。杉下も意気に感じる。同じ連投にしても監督の自分が命令を下すのとは、チームの結束が違うはずだ。そこまで読んだ上での天知のひと芝居だったのだろう。

敗戦投手にしない

 「放ることはできるが、抑えることは(約束)できない」。正直に話した杉下に、服部はこう返した。「おまえが5点取られたら、6点取る。6点取られたら、7点取る。絶対に敗戦投手にはしない」。天知の思惑通り、チームは一つにまとまった。

 11月4日の第5戦は、西鉄の了承を得た上で先発変更。7安打を浴びながら、2失点に抑えて1点差で逃げ切った。杉下が強烈に覚えているのは、123球を投げ抜いた試合のことよりも、試合後の物々しさだった。

 「警察の護衛といっしょに球場へ入り、護衛といっしょに出て行った。普通はグラウンドの方を向いてインタビューを受けるのに、あのときはスタンドを向いて受けたんだよ。何か来るんじゃないかと思ったから。ベンチから一歩出ると、お客さんがウロチョロしてるんだから。ロッカーなんか使わないよ。宿舎でユニホームに着替えてから行ったんだ」

厳戒態勢での試合

 西鉄が勝った第3、4戦でさえ、試合中はビン、座布団が飛び、試合後はバスに投石され「勝ったらただではおかんぞ」とすごまれた。この試合では8回に杉下が高倉照幸の頭部に死球を当てており、博多のファンが暴徒化する恐れがあった。名古屋からはるばる駆けつけた中日応援団が、この試合は見ずに4日朝の列車で名古屋へ向かっていたのは幸いだった。まさしく厳戒態勢。130人の警官隊に守られて、中日ナインは外野出口から脱出した。

襲撃も日常茶飯事

 フランチャイズ制が確立した当時、ビジターチームのバスが襲撃されるのは日常茶飯事だった。博多のファンは特に荒っぽいことで有名ではあったが、1、2、6、7戦の西鉄ナイン、ファンも同じ目に遭っていた。当時の中日スポーツの記事は「温かく西鉄を迎えよう」と自省を促しているほどだ。疲労と恐怖の中での第5戦。杉下、炎の連投がこのシリーズの分岐点となった。

 ライオンズ、さらには福岡移転後のホークスの本拠地として数々の名勝負の舞台となった平和台だが、97年11月に閉鎖。外野スタンド改修時に見つかった平安時代の迎賓館「鴻臚(こうろ)館」は、今も発掘調査が続いている。 

【アラカルト】平和台球場

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 ▼所在地 福岡市中央区城内。球場があった舞鶴公園は桜の名所でもあり、大田卓司は「開幕の季節は桜が福岡城のお堀に映り、本当に美しかった」と話している

 ▼完成 1948年の国体用に造られたサッカー場を、翌49年に野球場に改造。球場開きは同年12月18日の巨人−阪急戦

(上)かつての球場入口脇に設置された平和台球場の記念プレート(下)解体される前の平和台球場(手前)。奥には福岡ドーム(当時)も見える=1997年2月12日、本社ヘリから撮影

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 ▼伝説弾 両翼92メートル、中堅122メートル。53年8月29日の大映戦で中西太が放った中堅スコアボード越えの一撃は、推定162メートルといわれる

 ▼収容 当初は2万5000人。58年の全面改修工事で、3万5000人となった

 ▼セ・リーグ開幕 2リーグ制となった50年3月10日、セ・リーグは平和台と下関で分散開幕。西日本−広島、巨人−松竹戦が行われた

 ▼グルメ 球場売店で販売されていた「ホームランうどん」。博多うどんに丸天と青ネギが入ったシンプルなもので、大田は「当時は相手監督のツケで各球場の名物を食べたものだけど。平和台のうどんが断トツだった」

 ▼ラストゲーム プロ野球公式戦は92年10月1日のダイエー−近鉄戦。ダイエーは10連敗していた野茂英雄から8回に広永益隆がソロ本塁打。この1点をルーキーの若田部健一が守りきった

【回想録】日没狙いの「遅延行為」がファンの乱入騒ぎに発展

1952年7月16日西鉄−毎日戦

(上)制服・私服の警官に囲まれて陳謝のマイクに向かう毎日の湯浅禎夫監督=1952年7月16日(下)機動隊にガードされ引き揚げる金田正一監督(左端)らロッテナイン=1973年6月1日

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 「平和台事件」が起こったのは1952(昭和27)年7月16日の毎日戦。雨で試合開始は2時間遅れの午後5時だった上に、降雨による中断もはさんだ。4回終了時で4−9。ナイター設備もなく、7時29分の日没が近づくと、リードされている毎日の選手は何度もタイムをかけ、あからさまな遅延行為を続けた。だが、球審はノーゲームを宣告。勝利が消えたことに怒ったファンが、グラウンドに乱入し、多くの選手が殴られる騒ぎとなった。

 毎日の湯浅禎夫監督は場内放送で謝罪。警官隊に守られ車で球場を脱出した。それでも騒ぎは収まらず毎日の宿舎にファンが殺到。結局、責任を問われ、湯浅は7月27日に解任された。

 56年からはいずれも巨人を下して3年連続日本一。58年は今も語りぐさとなる3連敗からの4連勝だった。当時取材した西日本スポーツの武富一彦は「4連敗じゃどうなるか。福岡のファンが怖くて、選手も必死になった部分があったのでは」と話す。

 黄金時代を築いた西鉄だが、69年オフの「黒い霧事件」を境に70年から3年連続最下位。ついには球団を売却し、73年に太平洋クラブとなった。低迷期を支えた大田卓司が「自分の青春」と話す平和台も「いつもガラガラだった」と閑古鳥が鳴いていた。新経営陣にとって、平和台にかつての活気を取り戻すのは至上命題だった。

 そこで仕掛けたのが、73年の開幕カードで当たるロッテとの「遺恨対決」。ロッテの金田正一監督もこの誘いに応じた。計算通りに盛り上がったのだが、5月に金田が太平洋を「どん百姓チーム」とののしったあたりから、制御不能に陥った。

 6月1日の試合後は酒瓶などが大量にグラウンドに投げ込まれ、ロッテ関係者はベンチに缶詰め。午後11時すぎに福岡県警機動隊の投石防止用の金網装甲バスで球場を脱出。球場玄関のガラスは群衆に割られた。

 武富は「“クスリ”が効きすぎたのかな。さすがのカネヤンも青ざめていた」と振り返る。大田も「それだけ熱狂的なファンが多かったんだろうけど、球場に装甲車が来たのはさすがに驚いた」と話す。熱狂と暴発は常に紙一重だったのだ。 (相島聡司)

(次回は3月16日掲載)

 

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