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【特選!レジェンド校】

届かぬ大優勝旗 熊本工

2018年4月17日 紙面から

 夏3度の準優勝も頂点は遠く−。川上哲治らが活躍した戦前から甲子園で輝かしい戦績を残しながら、熊本工は深紅の大優勝旗を目前に涙をのんできた。「奇跡のバックホーム」に阻まれた1996年夏の決勝の記憶は新しいが、悲運には理由があるのだろうか。60人を超えるプロ野球選手を輩出した同校野球部の歴史でも「最強世代」といえる95年度のチームを中心に探ってみた。 (文中敬称略)

(左)川上哲治(中)伊東勤(右)荒木雅博

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全国屈指の伝統校 OBプロ選手は60人超

熊本工のグラウンド脇にずらりと並ぶ甲子園出場記念プレート

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 2017年にOBの伊東勤が野球殿堂入りし、荒木雅博は通算2000安打を達成。同年は2人のOBを祝う横断幕が正門前に掲げられた。戦前にはのちの「打撃の神様」川上が活躍。今年創立120周年の熊本工は全国屈指の伝統を誇る。

 1980年に八代のエースとして夏の熊本大会決勝に進み、伊東の熊本工に惜敗した秋山幸二が「プロ入りする選手がとにかく多かった。プロ養成学校みたいな印象だった」と話すように、OBのプロ選手は60人を優に超える。

 甲子園出場は春が21回、夏が20回でいずれも九州では最多。春16勝、夏29勝の勝利数も九州最多ながら、最高成績は夏3度の準優勝。川上が在籍した34年と37年に決勝へ進み、96年には松山商(愛媛)と覇を競ったが、あと1勝に泣いた。

松山商−熊本工 10回裏熊本工1死満塁、本多の右飛で三走・星子がホームを突くもタッチアウト。サヨナラを逸す。捕手・石丸=1996年8月21日、甲子園球場で

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 特に96年は、延長10回に松山商の右翼手による「奇跡のバックホーム」にサヨナラの生還を阻まれた、選手権史に残る名勝負。ただ、当時の主将だった野田謙信は「新チーム結成時は『熊工史上最弱』と本当に言われていました」と明かす。

 その理由には、1学年上の95年度のチームの存在もあるだろう。遊撃手の荒木がドラフト1位で中日、エースの松本輝が同2位でダイエー、外野手の田中雅興が同5位でオリックスに入団。熊工史上屈指のメンバーだった。

燃え尽き症候群 「勝って当然」の重圧…

 荒木らは新チームになった94年秋の九州大会を制覇。準決勝以外の3試合は2桁得点の圧勝だった。当時は出場校が九州各県の持ち回り制だった明治神宮大会には出場しなかったが、二塁手で現在は母校の監督を務める安田健吾は「周囲に『神宮でも優勝できた』と言われた」と振り返る。

1995年のセンバツ開会式で行進する熊本工ナイン

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 翌95年のセンバツ切符を手にしたものの、優勝候補に挙がった大会前に選手は「異変」を感じていた。松本は「ひと冬を越えて弱くなったと感じたのは事実」と話す。安田は「冬の練習を本当に一生懸命やったのか」と今も自問自答するという。

 センバツは1回戦で郡山(奈良)を破ったが、2回戦は九州大会で下した日南学園(宮崎)に2−6で屈した。右手甲を骨折しながら2回戦に出場した荒木は「全国に出られたことで満足感があった。おごりがあったのかもしれない」と振り返る。

 後輩の野田は「1学年上はすごい人ぞろいで、僕たちの代とはスケールが違った。ただ、春の甲子園の後からうまくいかなくなって、個人個人がばらばらという感じになっていました」と話す。95年夏の熊本大会は準決勝で九州学院に敗れた。

 当時の熊本工は高校球児の「オール熊本」ともいえる存在。「熊本では勝って当然」の重圧も強烈だった。荒木が「満足感があった」と表現したように、甲子園出場が決まった時点で「燃え尽き症候群」のような精神状態になる選手もいた。

 88年夏にエースで出場し、ドラフト4位で89年にダイエーに入団した村上誠一は県南部の八代市出身。「当時は甲子園に行って当たり前の時代。負けたら『何しに熊工に行ったんだ』と言われるし、熊本大会で勝ってほっとした部分があったのは確か」と口にする。

手の内隠す強豪校 「打倒熊工」のあまりに

グラウンド横にある川上と吉原のモニュメント

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 当時は「打倒熊工」を期す他校が手の内を隠す傾向もあり、互いにレベルを高め合う環境ではなかったという。これも熊本工を含めた熊本県勢に選手権の優勝がない一因かもしれない。荒木も「熊本では強いが、全国的なレベルではなかったのかな」と振り返る。

 2014年秋から母校の指揮を執る安田は「簡単に映像を撮れる時代に隠しても意味がない。熊本の監督も若返っているし、ガチンコで戦ってレベルを上げないと」と話す。鍛治舎巧(現県岐阜商監督)が率いた秀岳館の昨春までの3季連続甲子園4強にも刺激を受けた。

 胸に「熊工」の2文字が入ったグレーのユニホームの「4度目の正直」はいつか−。松本は「必ず安田がやってくれるはず」と力を込める。私立校に戦力が集まる流れの中で、「九州の雄」は頂点を目指し続ける。

  (相島聡司)

 ▼熊本工 1898年に熊本県工業学校として創立され、1951年から現校名。野球部は23年創部で、甲子園は32年夏に初出場。巨人で56年に史上初の通算2000安打を記録した川上と、37年に川上とバッテリーを組んだ吉原正喜はともに野球殿堂入り。吉原は巨人で活躍後、44年にビルマ(現ミャンマー)で戦死。グラウンド横には2人を記念する石像がある。通算2000安打は川上のほか、広島で活躍した前田智徳が2007年、中日で活躍中の荒木が17年に達成した。

監督・小嶋仁八郎が育て上げた公立校の星 大分・津久見

1972年夏の甲子園で初優勝し、津久見ナインの手で胴上げされる監督の小嶋

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 あと1勝に泣いた熊本工とは対照的に、津久見(大分)は1967年春に吉良修一、72年夏は水江正臣と好投手を擁して全国優勝。九州の高校で春夏の甲子園をともに制したのは唯一で、監督の小嶋仁八郎が育て上げた地方の公立校の星でもあった。

 小嶋は地元の津久見市出身。大分・臼杵中(現臼杵)、中大、八幡製鉄(現新日鉄住金八幡)で投手として活躍し、短期間ながらプロにも在籍した。52年に津久見の監督に就任すると、同年夏に早くも甲子園初出場。投手の育成に定評があった。

 2年生で67年春の優勝を経験し、後に西武などで活躍した大田卓司は「投手の指導は熱心でしたが、打撃は全然教えてないです」と笑う。練習や試合前に「お神酒」と称した酒を一杯飲むなど豪快な逸話が残るが、基本は守りの野球だった。

 プロでは勝負強い打撃で「必殺仕事人」と恐れられた大田は、打撃を「見て学んだ」という。新チームの主将になった直後の練習で、小嶋は突然バットを握ると、「見ておけ」。打撃練習で柵越えを連発してみせたのだ。

 「自分も飛距離は自信があったけど、鼻っ柱を折られた。打てないチームに業を煮やしたんでしょうが『すごい』のひと言だった」。大田ら野手陣は小嶋の「模範演技」を脳裏に焼き付けて猛練習し、「津久見の発破打線」の伝統を継いだ。

 大田は68年夏の選手権に出場し、2回戦で同年春のセンバツを制した大宮工(埼玉)に15安打7得点で快勝したが、3回戦で盛岡一(岩手)に大敗した。「正直、油断があった」。逃した深紅の大旗は、4年後に後輩が故郷へと持ち帰った。

 小嶋は82年に監督を勇退し、99年に78歳で世を去った。津久見の甲子園出場は、沢村賞右腕の川崎憲次郎を擁した88年夏が最後。春6回、夏12回の出場は全て昭和だ。昨年には野球部員用の合宿所が復活するなど、平成以降の初出場へ関係者は意欲を燃やしている。

【プラスワン】工業高の甲子園

ともに初出場初V果たした夏の三池工&センバツの大宮工

 工業高校で夏の選手権を制したのは、巨人で活躍した原辰徳の父としても知られる原貢が監督だった1965年の三池工(福岡)だけだ。2年生エースの上田卓三がオール完投で初出場初制覇。甲子園出場は春夏通じてこの1度しかない。

 ちなみに、センバツ大会を制した工業高校も68年の大宮工だけ。くしくも三池工と同じ初出場初優勝の快挙だった。こちらは同年夏に春夏連覇を狙ったが、2回戦で津久見に3−7で敗退。甲子園出場はこの年の2度だけだ。

 工業高校と比べ、商業高校は長らく高校野球の主役だった。史上最多の7度の優勝を誇る中京大中京(愛知)は、前身の中京商時代に6度優勝。2位に広島商の6度、3位に松山商の5度が続く。

 センバツ大会は4度の優勝が全て中京商時代の中京大中京が最多タイ。県岐阜商が優勝3度で3位だ。

(次回は4月25日掲載)

 

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