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【特選!レジェンド校】

2年連続で全国制覇した千葉のライバル校

2018年2月27日 紙面から

深紅の大優勝旗、優勝盾を囲んでジュースで乾杯する銚子商ナイン。後列左から3人目が篠塚。前列左から2人目が土屋。前列右端は斉藤監督=1974年8月19日、兵庫県西宮市の三福旅館で

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 夏の甲子園で初めて金属バットが採用された1974年の第56回大会、頂点に立ったのは銚子商(千葉)だった。「黒潮打線」と呼ばれた攻撃陣は5試合で48安打29得点と猛威をふるった。この打線で4番に座ったのが、2年生だった篠塚和典(60)=当時・利夫、のちに巨人、現・日刊スポーツ評論家。解禁された金属をあえて使わず、木のバットでチームを引っ張った。スポーツ4紙合同企画「特選! レジェンド校」の第4回は篠塚にスポットを当てた。 (文中敬称略)

14度目で悲願達成

 千葉の古豪・銚子商にとって、1974年が悲願の初優勝だった。春夏合わせて14度目の出場。この時点で準優勝1度、4強が1度、8強が6度と甲子園上位の常連だった中、ついに頂点に立ったのだ。

 全5試合に先発し、42イニング1/3を投げた3年生のエース・土屋正勝(のちに中日)は、初戦(2回戦)のPL学園(大阪)戦での1点しか取られなかった。その土屋を強力に援護した「黒潮打線」の中心が、2年生で「4番・三塁」の篠塚だった。

「プロでやる意識」

防府商との決勝で完封して初優勝を達成、マウンド上の土屋は捕手の太田に抱き上げられて喜びを爆発させた

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 解禁された金属を使わず、木のバットで臨んだ篠塚は「プロでやりたいという意識があったから」という。とはいっても、下級生が折れる心配もある木をあえて使うことに、上級生から異論は出なかったのか。ましてや上下関係が厳しい時代だったが「ボールを飛ばすことに関しては金属と変わらなかった。それにヒットもみんなより打っていた。だから先輩にも(斉藤一之)監督にも、金属を使えと言われたことはない」。この言葉どおり、飛び抜けて打った。

1年からレギュラー

 入学してすぐに二塁のレギュラー。1年秋からは4番に座った。2年夏の千葉大会は打率3割9分6厘。甲子園でも19打数8安打で打率4割2分1厘、2本塁打5打点と堂々たる成績だった。

 本来なら1年夏も甲子園に出ているはずだった。73年の第55回大会、銚子商は2回戦で江川卓の作新学院(栃木)と死闘を演じた。延長12回、押し出しで1−0のサヨナラ勝ち。この時、篠塚はアルプススタンドにいた。

 夏の大会前、盗塁練習で野手と接触して左肘を骨折していた。5月の関東大会で作新と対戦したときは、1年生ながら江川から安打も打っていた。だが甲子園での対戦はかなわず、最後に押し出しを選んだのは自分と同じ二塁手だった長谷川泰之。高校時代の印象に残ることの一つに「肘を骨折したこと」とも話す。このときの悔しさはあっただろうが、たどり着いた2年夏の聖地では、そんな思いも晴らすように打ちまくった。

初戦から止まらん

平安戦の4回に本塁打を放ち三塁を回る篠塚

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 初戦のPL学園戦で本塁打。続く中京商(岐阜)戦は2安打2打点。そして準々決勝の平安(京都)戦では2本目の本塁打を放った。4回、1ボール2ストライクから内角直球を右越えへ運んだ。試合後には「なにしろ球がよく見える。ストレートならみんな打てる気がします」と豪語した。そのことを聞くと「ホームランをもう2本ぐらい、本当に打てる気がしてたんだ」と言って笑った。甲子園で一番印象に残る一打は「平安戦の本塁打」だという。

 前橋工(群馬)との準決勝でも2安打1打点。そして、防府商(山口)との決勝でも2安打。0−0の6回2死三塁から3番・前島哲雄の中前打で先制した後、篠塚は中前打でつなぎ、この回一挙6点の大量点を演出した。

大会けん引の働き

 「2年で4番。成績を残さないといけないというプレッシャーもあったが、ある程度自信はあったし、役割はしっかりやれたと思う」。5打点はチーム最多で、8安打も土屋と並ぶチーム最多。2本塁打は大会トップ。まさに主役だった男は9回2死、優勝を決める最後の打球もさばいた。

 「三遊間へ強くないゴロが来て、ショートの3年に譲ろうかちょっと迷ったんだけど、行っちゃった」と笑顔を浮かべ、こう続けた。「いいチームの中でできた。甲子園を見て長嶋さんも自分に目をつけてくれた。優勝は忘れられない出来事」。銚子商唯一の頂点でもあった74年夏、篠塚にとってもかけがえのない夏だった。 (井上洋一)

 ▼銚子商 1900(明治33)年、千葉県銚子中学校として開校。野球部も同年創部。甲子園出場は春夏計20回(夏12回、春8回)で夏25勝、春14勝、通算39勝はすべて県最多。74年夏に優勝、65年夏と95年春に準優勝。主なOBは木樽正明(元ロッテ)、土屋(元中日など)、篠塚(元巨人)、宇野勝(元中日など)、尾上旭(元中日など)ら。

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 ▼篠塚和典(しのづか・かずのり) 1957(昭和32)年7月16日生まれ、千葉県銚子市出身の60歳。ドラフト1位で76年に巨人入団。長年巨人の主力として活躍し、首位打者2度、ベストナイン5度、ゴールデングラブ賞4度。94年限りで引退。通算1651試合、打率3割4厘、92本塁打、628打点。引退後は巨人コーチや2009年ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表打撃コーチを務めた。

決勝朝に肩痛…まさかの2日連続雨天順延

全5試合を1人で投げ優勝投手となった小川

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 銚子商が全国制覇した翌年、1975年の第57回大会で優勝したのが千葉県内のライバルだった習志野。67年の第49回大会以来2度目の頂点で、エースは全5試合を一人で投げ抜いた小川淳司(60)=現ヤクルト監督=だった。

 栄光への道のりは険しかった。8月21日、準決勝で広島商に勝った夜。「肩が痛くてうずいた。もともと肩は良くなかったが、あの夜はほとんど眠れなかった」。新居浜商(愛媛)との決勝が予定された22日朝、小川は監督の石井好博に言った。「すいません、肩が痛くて投げられません」。一大決心をして、高校に入ってから初めて監督に意見を言った。石井に「バカヤロー、ここまで来て投げられないでいいのか」と言われても、どうにもならない状態だった。

 しかし、雨が救ってくれた。台風6号の影響で22日は中止。「次の日も肩は普通じゃなかった」というが、23日も中止になった。「2日連続で中止はないだろうと覚悟していた。まさかが起こった」。ここまでにも既に3日間が流れ、雨に泣かされた大会。小川には恵みの雨だった。

 ただ、急に肩が良くなるわけではなく、決勝も痛みをこらえながら投げた。先制され、逆転し、7回に追いつかれ…。そして、延長もちらついた9回2死一、三塁で下山田清がサヨナラ打。「終わってホッとした。でも、やったぞという思いが強かったかな」。あの夏を思い出すように目を細めた。

 その年は春のセンバツにも出場したが1回戦敗退。地元に戻ると「やっぱり銚子商じゃないとダメだな」という声が耳に入った。「あれはすごく悔しかった」。これもバネにして戦った小川は、43年前の歓喜を「自分の中で誇りです」と語った。

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 ▼小川淳司(おがわ・じゅんじ) 1957(昭和32)年8月30日生まれ、千葉県習志野市出身の60歳。中大で外野手に転向、河合楽器をへてドラフト4位で82年にヤクルト入団。92年に日本ハムへ移籍し、この年限りで引退。通算940試合、打率2割3分6厘、66本塁打、195打点。引退後はヤクルトでスカウト、コーチ、監督などを務め、今季から2度目のヤクルト監督に就任。

【プラスワン】1975年の直接対決 篠塚を2度敬遠で試合制した小川

70年代千葉2強互いを強く意識

 1950年代後半から70年代にかけて、千葉の高校球界は銚子商と習志野が2強。ライバル意識も強く「習志野への意識はあった。練習試合もしなかった」と篠塚。小川も「銚子商を破らないと甲子園へ行けないという意識は強かった」と話した。

 県大会は当然、このカードがヤマ場になった。74年は4回戦で対戦し、銚子商が2−0で勝利。土屋が完封した。2年生だった小川も2失点完投したが及ばなかった。75年は準決勝で対戦し、習志野が2−1で勝利。小川が4回裏に自らの2ランで奪った得点を守り切った。

 この75年の試合、小川は勝負どころで篠塚との勝負を避けた。銚子商が先制のチャンスだった4回表2死二塁で敬遠。1点差に追い上げられた6回表の2死一塁では、走者が二盗したところで歩かせた。

 「監督に敬遠しろと言われて、悔しかったけどしょうがない」と小川。篠塚は「野球だからしょうがない。それだけ自分を嫌がっているということで、逆に言えば俺の勝ちという思いもあったかな。自分たちが負けた習志野が甲子園で優勝したのは良かったと思っている」と振り返った。

(次回は3月6日掲載)

 

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