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【特選!レジェンド校】

高校野球を変えた「やまびこ打線」 池田(徳島)

2018年1月30日 紙面から

 高校野球を変えた! 第64回大会(1982年)は池田(徳島)が、3度目の夏で初優勝を果たした。草創期、中等学校の時代から、血のにじむ猛練習で守備を鍛え上げたチームが覇権を争う舞台で、池田は常識を覆した。人呼んで『やまびこ打線』。スポーツ4紙合同企画「特選! レジェンド校」第2回は、当時2年生ながら強力打線の一角を担った江上光治(52)の証言を中心に、歴史の転換点をクローズアップする。 (文中敬称略)

「何で強かった?」

第64回大会で優勝を決め、マウンド上で抱き合い喜ぶ池田ナイン=1982年8月20日、甲子園で

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 江上は1984年、早大へ進学した。同級生も先輩も有名な高校球児ばかりだ。そんな仲間から「よく『池田って、何であんなに強かったの?』って聞かれました」と言う。

 第64回大会。池田は快進撃を続け、準々決勝で荒木大輔擁する早実(東東京)を14−2で撃破した。決勝では高校野球のお手本とされた、堅守の広島商も12−2と蹴散らした。

「KK」しのぐ衝撃

 翌年夏、池田がPL学園(大阪)に完敗し、桑田真澄、清原和博のニュースターが登場してもなお、江上は大学で質問攻めに遭った。それほど『やまびこ打線』のインパクトは強かった。

 バントに流し打ち、犠牲の精神が尊いとされ、パワーという高校生が手を出しづらかった領域。ここに着目した池田が“あの荒木”を打ち崩した瞬間、高校野球は確かに変わった。時間をさかのぼればまさしく、あらゆる状況が、その瞬間に向かって動いていったことに気づく。

 畠山準という並外れた好投手が80年、入学する。監督の蔦文也(故人)は、何度も甲子園に出場できるともくろんだ。しかし81年秋、入学から4度目の機会も逃した。

副部長からの提案

 チャンスはあと1回。その冬、レスリングの有名選手だった野球部副部長・高橋由彦の提案を、蔦は渋々受け入れた。ウエートトレーニング、そして近隣のレストランの協力による「朝夕、肉、肉、肉でした」(江上)という食育だ。高橋は、江上が1年時に池田に再赴任。前回も進言したが、突っぱねられている。蔦にすれば、わらにもすがる思いというタイミングだった。

 夏の徳島大会は投打がかみ合い、ついに池田は甲子園切符を手に入れた。開会式。室内練習場に入場行進を待つ出場校が詰め込まれる。中軸を任された2年生の江上と水野雄仁は常に行動をともにした。「あの時、水野が『みんな中学生みたいやな』って、僕も『オレら、すごいな』と」と体つきの違いを実感した。

伝統校戸惑う打球

(上)準々決勝・早実戦の1回裏、先制2ランを放つ池田・江上光治 (下)江上(後方)に2ランを打たれ、スタンドを見やる早実・荒木大輔=1982年8月18日

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 1回戦。静岡の主戦・大久保学に手を焼いたが4回、山下和男が一塁強襲の逆転打を放つ。江上は「失策気味でした」と言うが、7番打者の打球ですら、伝統校・静岡の野手が戸惑う強さを持っていたのではないか。

 2、3回戦で決勝本塁打を放った山口博史には『恐怖の9番』の異名がついた。もともと江上が「僕が3番なんて、山口さんの前でおこがましい」という中軸打者だったが、実はお調子者であるが故に蔦監督からの懲罰含みの打順だ。しかし、周囲はそう見ない。「9番で、あれかよ・・・」。

 試合を追うごとに「池田伝説」が拡大する。ファンには共感を、相手チームには恐怖心を植え付ける。極め付きが準々決勝、対早実だった。

豪雨での苦い経験

 ここでも、運命が池田の背中を押す。朝からの強い雨。3年前、センバツの準々決勝で豪雨の中、東洋大姫路(兵庫)と死闘を演じ、敗れた経験のある蔦は「絶対に試合はある」と細心の注意を払って備えた。一方、「早実は一度、宿舎に引き揚げましたね。多少、気が緩むこともあったのでは」と江上は語る。

 さらに甲子園で16試合を経験した江上が「唯一」という、荒天により開放された室内練習場での呉越同舟。ここで畠山がやや力を込めたキャッチボールをしたところで、早実ナインが「ざわついたんです。そこでもう、勝負はついていたんじゃないでしょうか」

 3番・江上が先制弾、5番・水野が2本塁打。荒木、石井丈裕に計20安打を浴びせた。繰り返される金属音が、銀傘にこだました。伝説は『やまびこ打線』と名付けられた。

 79年センバツの雨。畠山入学後も遠い甲子園。副部長・高橋の再赴任と筋トレ導入。下位打線の活躍。荒木大輔という大スターの存在。早実戦直前の悪天候。そして、2年生コンビ・・・。すべてのストーリーはこの日、この瞬間のために準備されていた、そう思えてならない。 (西下純)

寮生の食生活を支えた 「レストハウスウエノ」

「池田の3年間が今も役立っている」と江上=福岡県の日本生命久留米支社で

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 本文にも少し触れたが、池田にまつわる名所として、当時の寮生に格安でたらふくの肉を提供した「レストハウスウエノ」がある。江上は「練習が楽だったので、食べる余力が残っていました。これも体を大きくできた理由」と思い出す。寮生は1日いくら食べても800円だったとか。池田の活躍で人気店となり、現在も全国から訪れるファンは多い。

「野球」の名付け親 中馬庚の赴任地

 池田(徳島県三好市)は四国山地の山あい、県内を東西に貫く吉野川上流に位置する。川沿いに30キロほど下った、こちらも山あいには脇町高(同美馬市)がある。米国由来のこの球技に「野球」と名付けた中馬庚(ちゅうま・かのえ)が同校校長に赴任したのが1914年。そして翌年、夏の高校野球選手権(全国中等学校優勝野球大会)が産声を上げる。球史から外すことのできない地域なのだ。

【プラスワン】江上が唯一悔やんだ応援ボイコット

3年夏のPL戦

 江上は「本当に幸せな高校時代でした」と言う。中学時代は7番打者で、他校受験を決めていた。願書提出直前に「どうしても蔦先生と野球をやりたい」と頼み込んでの池田進学が、その後の大活躍につながった。

 その幸せな高校時代で唯一の後悔がある。3年夏の準決勝でPL学園に大敗。「油断。10回戦ったら残り9回、全部勝てる相手でした」と言うが、後悔はそれではない。

 期間中、ベンチ外の3年生数人が応援をボイコットし、宿舎に帰っていた。「“溝”に気づきませんでした」と江上は振り返る。

 前年の優勝から大人気校となった池田。連日の取材、全国の野球部監督が来訪、観光バスまでバンバン来た。「ちやほやされましたね」というレギュラーと裏方との溝だ。「水野が気遣っていたことは知っていましたが、キャプテンの僕がそれをできなかった」

 熱狂する大人に翻弄(ほんろう)されたとはいえ「なぜ、控えを尊重できなかったか」と悔いている。「(1983年春の)センバツ優勝が第55回大会だったので、こじつけですが55歳になる2020年までには何かしたい。今も頑張れているのは、彼らのおかげだから」と主将の顔を見せた。

 ▼池田 1922年4月、徳島県立池田中学校として創立。野球部は47年創部。71年夏に甲子園初出場を果たすと、部員11人だった「さわやかイレブン」の74年春や79年夏の準優勝で強豪校の仲間入り。82年夏に悲願の初優勝。春夏通じ出場17度、優勝3度。主なOBは畠山準(元南海など)、水野雄仁(元巨人)ら。蔦文也元監督はライバルの徳島商高出身。

 ▼江上光治(えがみ・みつはる) 1965(昭和40)年4月3日生まれ、徳島市出身の52歳。鴨島一中3年時に全国大会出場。池田では2年夏から主軸を打ち、甲子園を3度経験。早大でも主将を務め、日本生命へ。現在は日本生命保険相互会社久留米支社、法人職域および公務担当部長。

【第63回大会・3回戦】20年を経てよみがえった「逆転の報徳」

(左)報徳学園の永田裕治前監督=兵庫県西宮市の同校で (右)早実戦の延長10回2死二塁、西原の左翼線安打でサヨナラ勝ちし抱き合って喜ぶ報徳ナイン。右はマウンド上で肩を落とす荒木=1981年8月18日、甲子園で

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 池田の「さわやかイレブン」や「やまびこ打線」、松山商は「夏将軍」。こうした呼称で愛される高校は少なくない。早実・荒木が2年時の1981年には「逆転の報徳」が20年ぶりによみがえった。

 報徳学園(兵庫)が春夏通じて初出場を果たした61年夏、1回戦で倉敷工(岡山)に対して延長11回表に6点を奪われながら裏に追いつき、12回にサヨナラ勝利を収め、その異名がついた。

 そして81年。3回戦で早実と対した報徳学園は9回表を終えて、3点のビハインド。これを追いついて延長10回、サヨナラで奇跡の再現をやってのけ、そのまま初優勝まで突っ走った。

 当時のメンバーで報徳学園前監督の永田裕治(54)は「プレー中はみんな必死。あとで振り返って『逆転の報徳』の伝統があったのかな、と感じました」と言う。9回、同点打の浜中祥道は守備要員だから、まさに神懸かりな逆転劇だった。

 ちなみに永田は74年春、報徳学園と「さわやかイレブン」の池田との決勝を観戦して、報徳学園への進学を決意した。自身の全国制覇翌年、荒木を倒して頂点に駆け上がったのが池田というのも、甲子園ならではの縁を感じさせる。

(次回は2月6日掲載)

 

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