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【特選!レジェンド校】

全国制覇7度の最強王者 中京大中京 「守り勝つ」伝統

2018年1月10日 紙面から

 夏の甲子園を舞台に全国の球児が熱い戦いを繰り広げる全国高校野球選手権が、今夏で100回大会を迎える。1915年に大阪・豊中運動場で「第1回全国中等学校優勝野球大会」が挙行されてから103年。戦争による中断をはさみながらも、これまでに多くの名勝負や名選手が生まれた。今回の企画では高校野球史に輝かしい足跡を記した伝統校や強豪校、名門校、話題校を取り上げる。第1回は夏の選手権大会で歴代最多勝と最多優勝を誇る中京大中京(愛知)の栄光を支えた伝統の力に迫る。 (文中敬称略)

(左)吉田正男さんから寄贈されたユニホーム。左肩には3連覇を記念した3つの星が付けられている=東京都文京区の野球殿堂博物館で (右)1967年に野球部の活躍を記念して造られた留魂碑=名古屋市昭和区の中京大中京高グラウンドで

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深谷弘次の哲学

深谷弘次氏

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 甲子園で春夏通算133勝。中京商、中京の時代から一貫して、中京大中京は堅守とそつのない攻撃で他を圧する白星を積み重ねてきた。

 中京商時代の1954年、夏の大会で5度目の優勝を遂げた時の監督だった深谷弘次(89)は「中京野球」について次のように話す。

 「投手が中心で、守備に重きを置くのが中京の伝統ではないか。打つだけではそんなに点が入るわけではない。バントや足を活用しないと」

 堅守で相手の攻撃をしのぎ、機動力と小技を生かした緻密な攻撃で得点を重ねるのが中京野球。深谷が最も中京らしい戦いとして挙げたのが、大会ナンバーワン左腕の前岡勤也(元阪神、中日)を攻略した55年準々決勝の新宮(和歌山)戦だ。

4連続バントも

 3回まで7三振を喫するなど前半は手も足も出なかったが、0−0の5回に訪れた最初の好機を生かした。先頭の渡辺が四球で出ると、続く鈴木はバスターエンドラン。遊撃手の逆をつく安打で無死一、三塁と好機が広がった。ここから3つのスクイズを含む4連続バントで豪腕を崩した。

 1死三塁から富田虎が仕掛けたスクイズは、深谷の指示によって三塁前へ転がしたものだった。「試合前の練習を見て、三塁手が悪送球をすると予想していた」という深谷の狙い通り、捕球した三塁手が本塁へ悪送球して加点。動揺を誘うと、続く岩本のスクイズは捕球した前岡が一塁へ悪送球した。

 前岡の前にわずか4安打、17三振を奪われながらも6−0で快勝。深谷は「バントでも足が影響する。そういうところに伝統が出ている」とチームの底力を強調した。

相手校への重圧

 伝統校は、校名やユニホームで相手に威圧感を与えることもある。巨人や中日などで選手、コーチを経験した元慶大監督の江藤省三(75)は「当時は中京、浪商、平安、法政二といえば、みんなが一目おいた。試合の前に名前だけで6割ぐらいはもう勝っている感じだった」と振り返る。

 伝統の重みは脈々と受け継がれている。82、83年の甲子園に出場し、プロでも広島などで通算78勝を挙げた紀藤真琴(52)は「中京は全国大会に行って当たり前。3年夏に藤王(康晴、元中日など)の享栄と愛知大会決勝で対戦した時は緊張した。その代わり、中京の文化や歴史には、のちに広島のエースになったことや地元の中日でプレーしたことに匹敵するくらいの誇りがあった」と話す。

練習プロレベル

43年ぶり優勝で駆け寄る中京大中京ナイン=2009年8月24日、甲子園球場で

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 練習では、プロレベルのフォーメーション練習などもやっていたという。江藤は「サインの見逃しは絶対に許されない、雨の日はルールの勉強で、徹底的に覚えた。あれが今も生きている。相手をだますのは当たり前。ずるい野球もした」と述懐する。

 捕手が球をこぼして走者を二塁に進められた時、二塁手の江藤が「惜しかったね、ファウルで…」と走者へ話しかけ、真に受けた走者が一塁へ戻ろうとベースを離れた時にタッチアウトにしたこともあった。

 球史に残る33年の準決勝、明石中(兵庫)との延長25回の熱戦では、刺殺と補殺を合わせた計107回の守備機会を無失策で守り抜いた。2009年に夏の大会で7度目の優勝を遂げた時は、1試合で複数の失策を記録した試合がなかった。いつの時代も堅守がチームを支えた。 (堤誠人)

総合力で3連覇 吉田正男

吉田正男さんから寄贈された1933年の夏の大会3連覇優勝記念ボール(右のサインは杉浦清さん)

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 高校野球は「好投手あるところに栄冠あり」といわれる。中京大中京も30人近い投手がプロに進んでいるが、豪腕タイプの投手は少ない。1931年からの夏3連覇をエースとして投げ抜いた吉田正男も総合力に優れたタイプ。深谷は「吉田さんはスピードこそなかったが、コントロールとカーブと守備が良かったと聞いている」と話す。一方、重い速球が持ち味だった野中徹博(元阪急など)を擁した時代は春夏計3度の甲子園で4強が2度、8強が1度と大旗には届かなかった。

 ▼中京大中京 1923年に名古屋市で最初の5年制私立商業学校として創立され、野球部も同年に創部。甲子園大会初出場の31年春に準優勝。同年夏から史上初の夏3連覇、66年には史上2校目の春夏連覇を達成した。夏7度、春4度の優勝はともに歴代最多(春は愛知・東邦とタイ)。夏の選手権出場回数は歴代5位タイの28度。主なOBは野口二郎(元阪急など)、木俣達彦(元中日)、稲葉篤紀(日本代表「侍ジャパン」監督)、嶋基宏(楽天)、堂林翔太(広島)ら。

今も残る桐蔭「台覧試合」のスタンド 受け継がれる伝統

台覧試合を記念して造られたスタンドの前で練習する桐蔭ナイン=和歌山市の桐蔭高グラウンドで

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 高校野球(中等野球)で最初に黄金時代を築いたのが大正時代の和歌山中(現桐蔭)だ。1921、22年に大会初の連覇を達成し、23年は準優勝。22年12月には当時の皇太子殿下(のちの昭和天皇)が和歌山中の現役−OB戦を観戦された。「台覧試合」を記念して造られたスタンドは今も残っている。

 大正から昭和初期にかけて、のちに野球殿堂入りした強打の井口新次郎や速球派左腕の小川正太郎らを輩出。野球部OB会の新島壮(つよし)会長(68)は「練習を見に来られた小川さんは、ずっと投手についていた。『内野手は、一塁へ送球する時には一塁手でなくミットを見て放るんだよ』と言われたことを覚えている」と懐かしむ。

(上)野球部OB会の新島壮会長(下)伊藤将監督

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 県内トップレベルの進学校でもある桐蔭は、86年を最後に30年以上も夏の甲子園から遠ざかっている。現在の和歌山は智弁和歌山が横綱格。坂本雄冴(ゆうが)主将(2年)は「今は伝統のある高校があまり甲子園に出ていないので、見返したいという気持ちはある」とライバル心を燃やす。

 同校は、昨年までの99大会すべてに予選出場している。2015年春のセンバツに21世紀枠で久々に甲子園の土を踏んだ時もチームを率いた伊藤将監督(37)は「本を読んで、『こんな時代があったのか』と思うことも多い。150年、200年と高校野球が続く限り、出続けてほしい」と伝統を継承していく考えだ。

【第1回大会あれこれ】 救護班なし 選手には景品が出された

 1915年の第1回大会は告知から全国大会の開幕まで約1カ月半と短く、旧制高校や雑誌社が主催する大会を予選として代用する地区があるなど慌ただしかった。

 また、いろいろな面で手探りな部分が多かった。選手に景品が出たのもその一つ。優勝した京都二中には百科事典、50円の図書切手と選手に腕時計1個ずつ、準優勝の秋田中には選手に英和中辞典1冊ずつを副賞として贈呈。1回戦に勝ったチームの選手には万年筆1本ずつが贈られた。

 これは、町内会などの運動会に景品が出ていたことの名残といわれる。大会後にはアマチュア選手へ景品を贈ることへの是非が問われ、翌年からはなくなった。

 第1回大会では救護班がなく、負傷した選手は豊中運動場近くの医院に運んで手当てをしたという。まだ野球を知らない人も多く、全国大会初日の新聞には「球と走者の遅速によって生と死を分ける」などと観戦の手引きが掲載された。

(次回は1月30日掲載)

 

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