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【KOSHIEN新世紀】

甲子園が熱狂した強豪校(2) PL学園・立浪和義 太く強い「連覇会」の絆

2015年10月27日 紙面から

第69回高校野球選手権大会で春夏連覇を達成し、場内を一周しながら応援席前で高々と優勝旗をかかげるPL学園主将・立浪和義=1987年8月21日、甲子園で

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 桑田真澄が投げ、清原和博が打った1985年は、第57回センバツが4強、夏の第67回大会は全国制覇した。立浪和義と強力投手陣を擁した87年は、第59回センバツ、夏の第69回大会を連覇した。80年代の甲子園を席巻したPL学園。「最強世代」はどっちだ−。 (文中敬称略)

87年夏(33期生)主将

アルプスから見た「KK」

 桑田、清原ら「31期生」が夏の甲子園を制した姿を、アルプススタンドから見つめていたのが「33期生」だ。野村弘(のちに弘樹)、橋本清、片岡篤史らそうそうたるメンバーを束ねたのが立浪だった。

 「PLの主将は全員の投票と監督の意見で決まるんです。僕がなるなんて、まったく考えていなかった。わがまま放題でやっていましたからね。でも主将をやったおかげでいい勉強をさせてもらった。周りを見ることを覚えましたから」

 1学年20名以内。全国にその名を知られた精鋭が集う学校だった。才能と才能、個と個のぶつかり合い。全員が「研志寮」で暮らし、校舎、専用グラウンドも敷地内。試合と帰省日以外は一歩も出られない。なおかつPLには独特の「付き人」と「部屋子」システムがあった。上級生が規律と技術を教え、下級生は雑用を引き受ける。

桑田に守られた「寮生活」

 「1年生は先輩より先に起きるんですが、目覚まし時計が鳴ってしまうと先輩も目を覚ましてしまう。ジリリッと鳴る直前に、カチャッて音がするんです。そのタイミングで止めなければいけませんでした」

 配膳も洗濯も下級生の仕事。台数に限りがある洗濯機を、深夜に奪い合った。ただでさえ1時を過ぎる就寝時間が、後れを取れば2時、3時になるからだ。立浪の「部屋長」は桑田だった。指名した理由を、プロに入ってから聞かされた。

 「おまえはたぶんプロへ行く。だから僕が守ろうと思ったんだよ」。こうした制度が、現在の部の存亡の危機を招いたことは否めない。立浪を見込んだ桑田は、その防波堤役を買って出たのだ。

ギリギリだったセンバツ

 秋季大阪府大会を3位で通過。近畿大会でも4強止まりだったが、しぶとくセンバツ切符を射止めた。1回戦は、西日本短大付(福岡)。のちに広島からドラフト2位で指名される石貫宏臣を擁する強豪を引き当て、立浪は「みんなに怒られてねえ…。でも『強いとこに勝ったら、乗るんや!』って言い返したんです」。言葉どおりに競り勝つと、延長戦2試合を含む激戦を制し、紫紺の大旗を手にした。

 「春はギリギリで出たし、1試合ずつ自信をつけていった感じ」。夏までに一気に成長した。夏の甲子園では全6試合、1回に先制し、一時的にリードを許したのも1回戦(中央)だけだった。

 「こっちはいい投手が3人いたから、やってみないとわからないけど…。桑田さんたちの方がすごかったと思います。比べようにも1年のときにあの3年を見てしまっているわけだから」

 あこがれの「31期生」とどちらがPL史上最強なのか。こう答えた立浪には、自慢がある。過酷な寮生活に耐え抜いた17人の同期生全員が、春夏いずれかの甲子園の土を踏み、優勝メダルをもっていることだ。卒業後につくったのが「連覇会」。この代だけが名乗れる親睦会の絆は、今なお強く、太い。  (渋谷真)

85年夏(31期生)主将

松山秀明 KKの孤立防いだ力量

宇部商−PL学園 9回裏2死二塁、松山秀明が右中間にサヨナラ打を放つ。投手古谷、捕手田処=1985年8月21日、甲子園で

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 最強を謳われたPL学園で、誰もが思い浮かべるのは桑田、清原の“KKコンビ”ら31期生の強さだろう。5人がプロ入りしたタレント軍団を主将として束ねた松山秀明(ロッテ内野守備走塁コーチ)は「僕らにチームワークは必要なかった」と胸を張る。不仲という意味ではない。

 「キヨ(清原)が甲子園で13本、桑田が6本打ってますが、僕ですら3本です。みんなホームランを打てるチームなんですね」

 その松山は2年夏に脱臼し、新チームが始動した秋はベンチ入りもできなかったが、主将に選ばれた。「補欠のキャプテンですから。焦りましたよ」と苦笑したが、3年のセンバツでは晴れてレギュラーとなった。

 準決勝は「100パーセント負けるとは思ってませんでした」という伊野商(高知)。しかしエース・渡辺智男が立ちはだかる。「あれほど当てるのがうまいキヨが、トミオの速球に当てられないんです。みんな、ビックリして『なんや、なんや』と言っているうちに負けてしまいました」

 しかしこれがチームを変えた。中村順司監督が、敗戦以後「泥んこになれ、ユニホームに土を付けろ!」と猛ゲキを飛ばし、夏、史上最強世代は完熟する。

 「チームを“なあなあ”の集まりにしない覚悟は常に持ってました。みんな中学ではトップ。個性があって当たり前ということを理解して(主将の役割を)務めた」

 KKを孤立させなかったのも松山の力量だろう。「(2人は)威張らんし、普通の態度でみんなと接していた。(他の選手も)3試合に1回は、KK以外がお立ち台に上がろう」と、いいライバル意識も持っていた。宇部商(山口)との夏の決勝戦。当時は試合前、両チームに甲子園のグラウンドを使ったフリー打撃の時間が与えられていた。これまでは決勝進出のご褒美として、飛距離を競い、楽しんできた。しかしこの日だけは違った。

 「みんなに頼みました。『お祭りじゃない。だからフリー打撃はホームランを狙わず、センター前、ライト前の単打を練習しよう』って」

 KK始め全員が松山の声に呼応した。息詰まる熱戦の決着がついたのは9回裏2死二塁。3番・松山の打球は練習通り、右中間方向へ飛ぶ。このサヨナラ打で最強伝説は、完結した。 (西下純)

 ◆PL学園野球部存続問題 2013年3月に発覚した部員の暴力問題で、6カ月の対外試合禁止処分を受け、監督が辞任した。その後も元部員の不祥事が明るみに出るなどし、2代続けて野球経験のない校長が監督に。現在の部員は2年生のみ11人。15年(1年生)に続き、16年の新入部員の受け入れを行わないことを決めており、来夏に敗れた段階で部は一時的に消滅する。ただ、学校側は17年度から部員募集を再開する方針で、廃部とはならずに再出発できそうだ。

【へぇ〜】PL「最強世代」 中村順司「やはり桑田、清原が3年生だった85年でしょうか」

野球道を語る名古屋商科大野球部の中村順司監督=2009年6月18日、愛知県日進市の同部グラウンドで

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 甲子園が生んだ最多勝監督は63勝の高嶋仁(智弁学園、智弁和歌山)だが、最高勝率(通算10勝以上)は8割5分3厘(58勝10敗)の中村順司だ。1980年秋に母校のPL学園を率い、81年センバツから84年に敗れるまで何と甲子園20連勝を記録した。

 春夏それぞれ3度ずつ全国制覇。携わった全学年からプロ野球選手を輩出している。「球道即人道」を座右の銘として掲げ「野球に打ち込んだ3年間が、その後の人生でプラスになるようにしてほしい」と選手に接してきた。そんな名将から見た「最強世代」は?

 「やはり桑田、清原が3年生だった85年でしょうか。夏の初戦(東海大山形)で29点。本当にすさまじい打撃だった。立浪たちは春夏連覇したオレらの方が強いと言うかもしれませんが」

 現在は名商大を率いる中村だが、高校野球は今も身近な存在だ。PL学園の教え子でもある長男の猛安は、日大東北(福島)の監督として甲子園を目指している。夏は3年連続で県大会準優勝。いずれも聖光学園に1点差で敗れているが、着実に力はつけている。「中村監督」が甲子園の土を踏む日も、そう遠くはないはずだ。

 ◆お知らせ KOSHIEN新世紀では、高校野球ファンの皆さまにアンケートを行っています。項目は(1)過去最強チームはどこか(2)歴史に残る名勝負は?(3)好きな高校球児の3点です。結果を集計、分析して11月24日付紙面で記事化します。はがきに〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号とアンケートのそれぞれの答えを明記し、〒460 8511 中日スポーツ「KOSHIEN新世紀アンケート」係まで。メール(nsupo@chunichi.co.jp)でも受け付けます。ご協力よろしくお願いします。

(次回は11月10日掲載)

 

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