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【KOSHIEN新世紀】

ストレスと背中合わせ アイドル球児の宿命

2015年9月22日 紙面から

坂本に群がるローティーンレディー。気のやさしい彼は恥ずかしそうに握手に応じる=1977年8月撮影

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1977(昭和52)年夏の甲子園

東邦「バンビ」坂本佳一

 甲子園には「怪物」、「スター」とは別に「アイドル」というカテゴリーがある。弱くてはいけない。でも強すぎてもいけない。女性の心をくすぐるマスクと、あと一歩で大旗を逃すストーリー性。1977(昭和52)年夏の第59回で出現したのが、東邦(愛知)の1年生エース・坂本佳一だ。「バンビ」と呼ばれた少年の快投と、当時の苦悩を振り返る。 =文中敬称略

童顔、投手、惜敗

 あれから38年。坂本の人生は、15歳の夏に激変した。夏の決勝戦では史上初となるサヨナラ本塁打を浴びた。童顔、投手、そして惜敗。アイドル球児となる条件は、すべてそろっていた。ほどなく人気が沸騰した。首が長いことからついた「バンビ」のニックネームだが、実は大会終了後に定着した。それからの坂本は、気が休まることがなかったという。

 例えば、練習を終えて帰宅する際の地下鉄。つかの間の休息時間も、坂本にとってはストレスのたまる時間だった。

 「疲れて寝ていると『大きなバッグを抱えもせず大股開きで寝ていた』と言われた。さも、寝ちゃいけないというように言われる。常に品行方正にしていなくてはいけないということが頭にあった。そっとしてほしいなとは思っていた」

 練習中は先輩らチームメート、学校には級友が、家庭には家族がいた。だが、それ以外の時が苦痛だった。いかに自分の身を守るか。

気を使う私生活

 「自分だけが(新聞やテレビで)取り上げられ、坂本の名を利用しようとする人もいた。学校では先輩や同級生が守ってくれたが、それ以外では何が起きても自分で対処するしかない。私生活の面ではかなり気を使ったし、しんどかった」

 常に誰かの視線を感じ、高校1年生が処理しきれないストレスを抱えた。それだけに、苦痛を理解してくれた周囲の気配りがうれしかった。

 中学時代は主に外野手だった。名古屋電気(現愛工大名電)のセレクションに不合格となり、1977年4月に一般入試で東邦に入学。1年夏の愛知大会から早くも主戦投手となった。

偶然で野球部へ

 「一般入試で入学したが、入学式の日に入部したので上級生と一緒に(練習)グラウンドへ連れて行ってもらうことができた。(入部が)1日か2日遅れて他の大勢の部員と一緒だったら、学校の裏で陸上部(のような練習)をやっていた。そんな状況なら辞めていたと思う。運がよかった」

細身の体で「バンビ」と呼ばれた東邦・坂本佳一=1977年8月、甲子園で

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158球で散る

 甲子園では、外角への速球と内角へのシュートを軸にした投球スタイルで勝ち上がった。東洋大姫路(兵庫)との決勝は1−1で延長戦に突入。10回2死一、二塁で4番の安井浩二(のち明大)に、右翼ラッキーゾーンへのサヨナラ本塁打を打たれた。158球目だった。

 普通の少年が、名門のエースとなったばかりか甲子園の決勝まで勝ち進んだ。「バンビ」と騒がれ、さらに期待される。だが、坂本は2度と甲子園の土を踏むことはできなかった。

 「ぼくはたまたま先輩の力で準優勝しただけ」。卒業後は法大、日本鋼管(現JFE西日本)で野球を続けたが、輝きは放てなかった。太田、原、荒木…。甲子園のアイドルと呼ばれた球児は、その後プロ野球選手になる夢を果たしたが、坂本は道半ばでマウンドを降りた。

 「名前があって鳴り物入りで(法大に)入ったけど、中央(東京)はそういうやつらの集まりだった。上には上がいることを知った」

 1年夏の思い出とその後の苦悩。今夏は、早実の1年生・清宮幸太郎が話題となった。甲子園が早朝から満員となり、一挙手一投足に熱い視線が注がれた。今後も清宮への注目が下がることはないだろう。投手と野手の違いこそあれ、坂本だから言えることがある。

 「けんかを売られても謝るしかない。ワナはいくらでもある。気を付けろとしか言いようがないし、そういうことがあると周りが理解してほしい。周りがちゃんと見ていてほしいな、と思う」

仲間のサポート

 坂本にはサポートしてくれた仲間がいた。1年夏、坂本は高校日本選抜に選ばれ、韓国に遠征した。当時のメンバーが昨年末、38年ぶりに大阪で集まった。

 「ほとんどの人が集まって、他愛のない話で盛り上がった。楽しかった」。これからも会おうということになり、会の名前を決める時に誰かが言った。

 「あの年はバンビの大会だったから『バンビ会』でいいじゃないか」。当時も今も、上級生は気を使ってくれた。長い年月を経ても友情が途切れずに続いている。アイドルだった坂本は、決して孤立していたわけではなかった。 (堤誠人)

第90回記念大会開会式セレモニーでグラウンドに並んだ(左から)三沢・太田幸司、東邦・坂本佳一、浪商・香川伸行、PL学園・桑田真澄=2008年8月2日、甲子園球場で

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死闘に散った三沢・太田幸司に始まるアイドルの系譜 

 甲子園のアイドル第1号は太田幸司(青森・三沢)とされる。3度目の甲子園となった1969(昭和44)年夏の第51回では、東北初の大旗を懸けて、決勝進出。松山商との死闘は延長18回、引き分け再試合に持ち込まれた。透き通るような白い膚に甘いマスク。実力がありながら準優勝に終わった悲劇性…。アイドルの要素は満たしており、人気は急上昇した。

 「宿舎周辺に女の子たちが押し寄せ、僕らは外出禁止。球場でバスを降りると入り口まで人だかり。ガードされながら歩いた」と太田は振り返る。ただ「僕は意識しなかった。そういうのを喜ぶこと自体が(世間的に)許されないような時代だったし」と当時の太田は冷静だったようだ。

 太田以降、実力にマスク、話題性を兼ね備えた「アイドルの時代」が到来した。まずは島本講平(箕島)、続いて定岡正二(鹿児島実)。74年夏の第56回大会で、その定岡と準々決勝で戦ったのが原辰徳(東海大相模)だ。延長15回の熱戦は、NHKの視聴率が、10%から34%に跳ね上がった。この大会から金属バットが導入された。アイドルといえば投手だった時代から、野手も人気を集めるようになった。くわえて、原は1年生ながら5番打者。応援する側からいえば「3年間の軌跡」を追いかける楽しみができたわけだ。原は翌75年センバツで準優勝し、人気を不動のものとする。女子中高生が集まって「親衛隊」をつくった。県大会でも、東海大相模の試合は動員力のある球場に変更された。

 原と入れ替わりで現れたのが77年夏の「バンビ」こと坂本。荒木大輔(早実)は80年夏の第62回から5期連続で甲子園を沸かせた。「1年夏の準優勝」が2人のキーワードだ。「負けた悔しさを晴らす」ストーリーを、ファンもともに追い続けた。長らく現れなかったアイドルが、甲子園に戻ったのは2006年夏の第88回。「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹(早実)だ。汗を拭きつつ、田中将大(駒大苫小牧)との名勝負を制した「勝者のアイドル」でもある。

 ▼坂本佳一(さかもと・よしかず) 1961(昭和36)年11月9日生まれ、名古屋市出身の53歳。右投げ右打ち、投手。東邦では2年生以降は甲子園に出場できず、卒業後は法大、日本鋼管(現JFE西日本)でプレーを続けた。現在は名古屋市に本社を置く岡谷鋼機に勤務。

【へぇ〜】追っかけ女性ファンをもしのぐ沖縄県民の情熱

 甲子園のアルプススタンドでは「県民気質」がよくわかる。最も熱いと言われるのが沖縄県民だ。沖縄代表の試合が始まると、県内一の繁華街である国際通りから人が消える…。この逸話は決して作り話ではない。

 1968(昭和43)年夏の第50回で、県勢初の4強に進んだ興南主将で、現在は監督を務める我喜屋優は、試合中の国際通りを撮影した写真を見たという。

 「写っているのはおばあちゃんが1人と犬が1匹だけ。(同じ国際通りでの)パレードは人が多すぎて車が動かなかったけど」と笑う。

 10年に春夏連覇した興南には「優勝旗を見たい」というファンが学校に殺到。優勝旗を置いていた理事長室の窓に鉄格子が付けられた。9月の県立博物館・美術館での「大優勝旗展」は、9日間で約5万人という異例の入場者数を記録した。

 「戦争など歴史的な背景もあり、今も基地問題などで意見が分かれることがあるが、高校野球では一つになれる。内地の人にも『胸を張れる』ものなのだと思う」。我喜屋が話すように、沖縄県人にとって高校野球は特別な存在なのだ。

 ◆お知らせ KOSHIEN新世紀では高校野球ファンの皆さまにアンケートを行っています。項目は(1)過去最強チームはどこか(2)歴史に残る名勝負は?(3)好きな高校球児の3点です。結果を集計、分析して秋をめどに記事化する予定です。はがきに〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号とアンケートのそれぞれの答えを明記し、〒460 8511 中日スポーツ「KOSHIEN新世紀アンケート」係まで。メール(nsupo@chunichi.co.jp)でも受け付けます。ご協力よろしくお願いします。

(次回は10月6日掲載)

 

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