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【KOSHIEN新世紀】

奇跡がもたらした元球児の再会

2015年8月25日 紙面から

松山商−熊本工 10回裏熊本工1死満塁、本多の右飛で三走・星子がホーム突くもタッチアウト。サヨナラを逸す。捕手・石丸=1996年8月21日、甲子園で(大月崇網撮影)

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100年に1度のクロスプレーのその後

 1996(平成8)年の第78回大会決勝で熊本工と対戦した松山商(愛媛)は「奇跡のバックホーム」で延長10回の大ピンチをしのぎ、全国制覇を果たした。刺した松山商の右翼手・矢野勝嗣(36)と刺された熊本工の星子崇(36)は一昨年、決勝戦以来の再会を果たし、2人の間に新たな“奇跡”が生まれる−。100年に1度のクロスプレーのその後を追った。 (取材・構成=浜村博文、西下純)

熊本の野球バー

 熊本市の繁華街に、高校野球ファンが集うバーがある。

 店内には熊本工と松山商のユニホームが並んで飾られ、客は過去の甲子園の名場面を映像で見ながら盛り上がる。96年夏の甲子園決勝。「奇跡のバックホーム」で本塁アウトとなった星子が経営する店だ。

 「矢野くんに会ったことが、この店をオープンするきっかけになりました」

 一昨年12月14日。2人は決勝戦以来、約17年ぶりに再会した。熊本のテレビ局勤務の男性が、愛媛朝日テレビに勤める矢野、星子共通の知人だった。

 「星子が商売をしてるから、君が行ったら喜ぶよ」との誘いに応じ、熊本を訪れた。

最高のスタート

 酒を酌み交わしながら約3時間、2人はあの試合、あのプレーを語り合った。「スタートはどうだったの?」と聞くと、星子は「少し早いかなと思うくらい、いいスタートが切れた。全力で走ったよ」と答えた。

 その後の人生についても話した。誰もが知るあのプレーが重圧となり、悩んだ時期があったのは刺した側も刺された側も同じだった。星子は卒業後、社会人の松下電器に進んだが、すぐに持病の腰痛が悪化。わずか2年で現役を退き、熊本に帰った。

飲食業の世界へ

 職を転々としたあと飲食業の世界へ。失敗を重ねながら、なんとか商売を軌道に乗せた。ただ、あのクロスプレーを地元の人々は忘れてはくれない。客から「お前のせいで負けた」と言われることも1度や2度ではなかった。

 「若い頃はあの試合に触れられるのが嫌で、野球の話はしたくなかった。でも、今は大丈夫。あのプレーがあったからこそ自分のことを覚えてくれている人がいて、こうして商売ができるから」

 そんな話のあと、星子は胸に秘めていた構想を矢野に打ち明けた。

 「野球バーみたいな店をやろうと思うんだけど、どう思う?」

背中押した言葉

 矢野は「面白い。やってみれば」と背中を押した。「店ができたら、あのとき2人が着ていたユニホームを飾りたいなあ」と星子。新たな計画に胸躍らせて、2人は別れた。

 オープンは再会から約半年後の昨年5月22日。店の名はいくつかの候補の中から「一番自分らしくて、しっくりくる」という理由で「たっちあっぷ」に決めた。

 「周りからは『タッチアウトだろ』なんて冷やかされますが…」。約1カ月後、矢野から約束通り松山商のユニホームが届いた。

 「ユニホームを贈るのは正直、悩みました。本当に決勝戦で着ていたユニホームなので…。でも、あのプレーについて話すのも嫌な時期があったという彼が、私との再会をきっかけに『たっちあっぷ』という店を開いた。何かお手伝いができればと思いました」

 奇跡のバックホームから19年。勝者と敗者が横に並んで、今も高校野球ファンを楽しませている。

延長10回 1死満塁 20センチずれていてもセーフだった

ライトに回っていたエース・新田と交代直後に大飛球

熊本工−松山商の古豪対決は、9回2死からの本塁打で熊本工が追いついた。さらに延長10回裏、先頭の星子が二塁打を放ったところで、松山商の沢田監督は継投。投手の新田を右翼に回した。犠打と2敬遠で1死満塁。ここで沢田監督は新田をベンチへ下げ、強肩の矢野を右翼に起用した。次打者の初球はその右翼へ高々と上がった。

 矢野は定位置やや後方で捕球。誰もが熊本工のサヨナラ初優勝を確信する飛距離だったが、矢野のノーバウンド送球は、捕手の構えたミットにピタリと収まった。

 沢田監督が「20センチずれていただけでもセーフだった」という奇跡のバックホームで併殺。11回表、今度は先頭・矢野の二塁打をきっかけに3点を勝ち越し。松山商は27年ぶり5度目の優勝を果たした。

69年夏決勝・松山商−三沢

井上明

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 松山商の異名は「夏将軍」。センバツ(出場16回、優勝2度)以上に夏(出場26回、優勝5度)に強さを見せつける。1969(昭和44)年の第51回大会。三沢(青森)との決勝は、まさに100年に1度の名勝負だった。

 先発は松山商が井上明、三沢は3度目の甲子園だった太田幸司。端正な顔つきで女性人気を集めた、元祖アイドル球児だ。

 息詰まる投手戦は延長に入り、三沢が押していた。15、16回と1死満塁。15回はカウント3ボールまでいったが好守に阻まれ、16回はスリーバントスクイズを失敗。あまりの重圧に、松山商には涙を流しながらプレーしていた者もいたという。

 4時間16分、両軍無得点のまま引き分け。翌日の再試合では松山商が4−2で三沢を下した。太田は27イニング、384球を1人で投げ抜いての敗戦。この悲劇性が太田人気をさらに高めた。この夏、東北勢8度目の決勝進出も仙台育英が惜敗。悲願は101年目へと持ち越された−。

【へぇ〜】2002年に復活した中馬庚、正岡子規ゆかりの「の・ボール野球」交流戦

愛媛・松山東&徳島・脇町

 「野球」の名付け親として知られる中馬庚(ちゅうま・かのえ)。鹿児島生まれの中馬は、1915年に徳島・脇町中(現脇町)の校長に赴任している。奇しくも「高校野球」が始まった年である。その3歳年長が松山中(現松山東)の正岡子規。ともに一高(現東大など)で野球を覚えた。

 この2人のつながりに目を付けたのが松山東で監督を務めた稲見達彦だ。稲見が提唱し、2002年に復活したのが「の・ボール野球」。当時のルールを再現、正岡子規の雅号にちなんで名付けたクラシックな野球だ。稲見の呼びかけに脇町が応じ、両校で「の・ボール野球」の交流戦が始まった。

 松山東野球部OB会長の一色隆士(66)は「野球の歴史、稲見さんの思いが今も息づいている」と話す。

 脇町をまとめるのが同校監督として74年に県4強に導き、池田校長なども務めた三宅孝夫(73)だ。三宅は「互いに歴史ある学校。うちはベスト4当時のメンバーが中心ですが、若手も入れて、何年も続く交流戦を行いたい」と意欲を示す。2人が四国にまいた野球の種は、今も育っている。その功績をたたえられ、中馬は70年、子規は02年に野球殿堂入りを果たしている。

 ◆お知らせ KOSHIEN新世紀では、高校野球ファンの皆さまにアンケートを行っています。項目は(1)過去最強チームはどこか(2)歴史に残る名勝負は?(3)好きな高校球児の3点です。結果を集計、分析して秋をめどに記事化する予定です。

 はがきに〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号とアンケートのそれぞれの答えを明記し、〒460 8511 中日スポーツ「KOSHIEN新世紀アンケート」係まで。メール(nsupo@chunichi.co.jp)でも受け付けます。ご協力よろしくお願いします。

(次回は9月8日掲載)

 

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