トップ > 中日スポーツ > スポーツ > KOSHIEN新世紀 > 記事

ここから本文

【KOSHIEN新世紀】

「幻の甲子園」で優勝していた徳島商

2015年8月3日 紙面から

夏の「幻の甲子園」大会で優勝した梅本安則(後列右端)ら徳島商ナイン

写真

1942(昭和17)年開催「大日本学徒体育振興大会」

 100年の歴史には「幻の甲子園」と呼ばれる大会がある。1942(昭和17)年夏。国が主導した「大日本学徒体育振興大会」だ。柔道、剣道にくわえ「戦場運動」など戦時色が色濃く反映された大会では、野球も開催された。ただし「回数継承」、「優勝旗の使用」は国が拒絶。戦局が悪化する中、最初で最後の大会を制したのは徳島商業だった。 =文中敬称略

戦況知らずプレー

 過去96回の歴史がある「夏」だが、優勝校は94校しかない。1918(大正7)年の第4回は、代表校が出揃い、抽選も行われたが、富山県で起きた米騒動が全国に広がったことを懸念して、大会直前の8月16日に中止が決定された。

 41(昭和16)年の第27回は、地方大会がすでに始まっていた7月に中止が決まった。軍の移動、物資の輸送を最優先するためで「2道府県にまたがる学徒の移動」は原則禁じられた。必然的に甲子園に集まっての全国大会は開けない。ただ、防諜的理由から球児たちですら中止の事実のみを知らされただけで、それ以上の報道は禁止された。

 全国大会は開催されなかったが、大会史に残っているのがこの2大会。逆に全国大会が開催されながら、大会史には残っていない「幻の甲子園」がある。翌42年の「大日本学徒体育振興大会」だ。主催は文部省(現文部科学省)とその外郭団体である大日本学徒体育振興会。朝日新聞は大会回数の継続や優勝旗の使用を申し出たが、拒絶された。戦意高揚が目的で、国が主導した。野球は柔道、剣道などの競技の1つという位置づけで、総合開会式は奈良県橿原神宮の外苑運動場で行われた。

 野球の会場は甲子園。地方大会を勝ち抜いた16校が出場した。甲子園行きを勝ち取ったのを確かめて、応召した監督がいた。6月にはミッドウェー海戦があり、航海の安全は保障されていなかった。内地に先駆けて野球部の廃部が進んでいた外地からは、台北工だけが危険を冒してやってきた。

 空襲警報と誤認しないよう今はおなじみのサイレンではなくラッパが使われた。もっとも、これはそれ以前の大会からで、使用されたのも軍隊用ではなく吹奏楽用であった。のちに禁じられた「ストライク」、「ボール」などの野球用語もそのままだった。

 その一方で、スコアボードには「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」、「戦い抜かう大東亞戦」という横断幕が掲げられていた。ローマ字表記のユニホームは認められず、漢字表記にあらためられた。整列した選手たちが皇居の位置する東方へ一礼し、試合が始まった。選手は「選士」と称され、あらかじめ出場校に配られた「選士注意事項」には続行不能でない限り交代を認められず、突撃精神に反すると投球をよけることも許されないと記されてあった。

サヨナラ押し出し

甲子園歴史館に展示されている1942年の「幻の甲子園」の優勝記念球

写真

 甲子園大会は41年夏、42年春と実施されなかった。国の狙いは別にして、選手にとって憧れの球場は格別だった。優勝候補だった平安中(京都)は準決勝、決勝を同日に戦う強行日程。延長11回、サヨナラ押し出し四球で下したのは徳島商だった。運命の1球をジャッジした球審は、戦後中日の監督として、日本一に導く天知俊一だった。

 徳島商の「7番・一塁」だった梅本安則(88)は、共同通信の取材に「一国存亡の時に、甲子園で心置きなくプレーできたことは奇跡とも言える」としみじみと73年前の夏を述懐した。梅本は「土もきれいに整備されて、格段にプレーしやすかった。戦意高揚の大義名分はあったと思うが、選手の一人として平和な時代に負けず劣らず、甲子園の土を踏んだ誇りと喜びがあった」と当時の胸の内を口にした。

 勝ち取った賞状と優勝旗は、いずれも45年7月の徳島空襲で焼失。梅本は「ひょっとしたら、命を失うかもしれない」と思いながら、懸命に川の堤防に向かって逃げた。空襲が終わり「命が助かったと切実に感じた。命さえあれば何とかなると思った」そうだ。

 当時の主将で遊撃手だった須本憲一は、明大から入団した東急フライヤーズで、同校の先輩である蔦文也(のち池田監督)とともにプレーした後、母校を率いた。板東英二は教え子。日が暮れたらベースランニング。暗くても見えるように各ベースを提灯で照らすのは、須本の学生時代からの伝統だったようだ。

 「須本さんは自分の話をしない人だったので、僕は卒業するまでそういう大会で勝ったことは知りませんでした。とにかく練習がきつくて、つらかった」

 こう語った板東の在学中は「幻の甲子園」を制した証しは何も残っていなかった。文部省が新しい優勝盾と賞状を徳島商に授与したのは、35年が経過した77年8月19日だった。

 戦争を知らない球児に対して梅本は「私たちの時代は特別だった。そういう時代もあったと思ってもらい、平和な時代に野球ができることの幸せを感じながら、思い切り精進してほしい」と希望した。戦局がさらに悪化し、予定されていた「第2回」は開催されず。西宮球場において「第28回」が開催され、球音が戻ってくるのは4年後の夏のことだ。

真田重蔵の悲劇

 参加資格に「大正12年8月20日以降出生」とあった。これにより満19歳を超える者は出場できなくなった。この年齢制限に引っ掛かったのが同年5月生まれの海草中(和歌山)の真田重蔵。2年前の第26回大会で、エースとして前年からの連覇に貢献した好投手は、最高学年の5年生として「3連覇」をねらう舞台に立てなかった。真田は翌43年にプロ入り。通算178勝をあげた。

【へぇ〜】石丸進一の五十回忌に墓前に誓い成し遂げた優勝 

1994年佐賀商V

石丸進一

写真

 1994(平成6)年夏。佐賀大会をノーシードで勝ち上がった佐賀商の田中公士監督、西原主将らは、甲子園に出発する前に佐賀市内にある同校OBの墓前に詣でた。剛球投手としてプロ野球の名古屋軍でノーヒットノーランを達成するなど活躍し、45年5月に亡くなった石丸進一。この年は五十回忌だった。

 22年生まれの石丸は特攻隊員として鹿児島県の鹿屋基地から零戦で沖縄へ出撃、帰らぬ人となった。その直前に最後のキャッチボールをしたことは、石丸を語る上で広く知られている。

 「千の風になってという歌のように、石丸さんが甲子園球場の上で見守ってくれていたのでしょうか」。田中は当時を振り返る。甲子園に乗り込んだ佐賀商は、勢いに乗って県勢初優勝を飾った。決勝で戦った相手が、鹿児島県勢(樟南)であったことも運命を感じさせる。

 「野球がやれたことは幸福であった」。東京ドーム横に戦没したプロ野球選手の「鎮魂の碑」があり、副碑に石丸の兄・藤吉による追憶の文章が刻まれている。その一節には、石丸の遺書の言葉が記されている。出撃直前まで持っていたボールとともに届いたものだ。

 ◆お知らせ KOSHIEN新世紀では、高校野球ファンの皆さまにアンケートを行っています。項目は(1)過去最強チームはどこか(2)歴史に残る名勝負は?(3)好きな高校球児の3点です。結果を集計、分析して秋をめどに記事化する予定です。

 はがきに〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号とアンケートのそれぞれの答えを明記し、〒460 8511 中日スポーツ「KOSHIEN新世紀アンケート」係まで。メール(nsupo@chunichi.co.jp)でも受け付けます。ご協力よろしくお願いします。

(次回は8月25日掲載)

 

この記事を印刷する

PR情報

閉じる
中日スポーツ 東京中日スポーツ 中日スポーツ 東京中日スポーツ 中日スポーツ購読案内 東京中日スポーツ購読案内 中日スポーツ購読案内 東京中日スポーツ購読案内 中日新聞フォトサービス 東京中日スポーツ