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【KOSHIEN新世紀】

沖縄の雄・裁弘義の足跡

2015年7月28日 紙面から

豊見城、沖縄水産を率い計17度の甲子園出場を果たした在りし日の栽弘義監督=1991年8月20日、甲子園球場で撮影

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豊見城、沖縄水産率い17度の甲子園

 「高校野球100年」の今年は、戦後70年の区切りの年でもある。悲惨な戦争の影響を最も受けたのは、1945(昭和20)年に地上戦の舞台となり、72年まで米国の統治下にあった沖縄だろう。その沖縄の高校球界を引っ張ったのが、2007(平成19)年に死去した栽弘義だ。豊見城と沖縄水産を率いて甲子園に計17度出場し、沖縄水産を90、91年の夏に2年連続準優勝に導いた琉球の名将。その足跡を振り返る。

 =文中敬称略

無謀かやむなしか

 無謀な酷使か。それとも勝負に徹したやむなき悲劇か。91年の第73回大会の終了後、あるエースの健康状態が日本中の関心を集めた。決勝までの全6試合、773球を投げ抜いた沖縄水産の大野倫だ。大阪桐蔭に13失点と打ち込まれ、2年連続の準優勝となった閉会式。すでに伸ばすことができなかった右肘は、その後に剥離骨折が判明した。投げさせた栽の判断は、賛否が分かれた。

 議論の過程で、ある言葉が栽の発言としてひとり歩きした。「甲子園で優勝するまで沖縄の戦後は終わらない」−。一部は大野の連投の真相をこの言葉に求めたが、生前の栽は「そんなことはひと言も言っていない」と一蹴している。

 高校で投手を断念し、九州共立大進学後に野手に転向した大野も首を横に振った。「あれは栽さんの言葉ではありません。栽さんは『高校野球と戦争は結び付けられない』という考えの方でしたから」とはっきりと否定した。

地上戦犠牲10万人

 栽が生まれた7カ月後に太平洋戦争が始まり、45年3月から沖縄は悲惨な地上戦の舞台となった。約10万人といわれる民間人の犠牲者には、栽の姉たちが含まれる。栽の背中にもやけどの傷痕が残った。

 栽の教え子で、99年春に沖縄尚学を県勢初の頂点に導いた金城孝夫(現長崎日大監督)は、恩師に戦争の影を感じていた。いわく栽は「閉所恐怖症だった」。それは「ガマの体験があるからじゃないかな」と推測する。「ガマ」とは沖縄の自然洞窟。沖縄戦の際に住民が隠れたことで知られている。

 本当の戦争を知るからこそ、栽は「戦争と野球を結び付けたら、野球にも沖縄にも失礼」と口にしていた。終戦記念日の8月15日に甲子園で戦った際には、選手に「(取材されても)戦争のことは知らないと話すように」と伝えたという。

勝負へのこだわり

第73回全国選手権大会決勝で大阪桐蔭打線に打ち込まれ、マウンドで肩を落とす沖縄水産・大野倫=1991年8月21日、甲子園球場で

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 「甲子園で優勝したぐらいで沖縄の戦後が終わることはない」−。生前に何度も取材した西日本スポーツの森本博樹は、栽のこの言葉を強く覚えている。そう語る一方で、栽は誰よりも勝負にこだわってもいた。全ては「沖縄のチームを甲子園の頂点に」という思いからだった。

 糸満から中京大を経た栽は、豊見城で初めて甲子園に進む。着任した年の主将だった金城は、当時の栽の印象を「丸刈りで目が血走っていた。怖かった」と振り返る。当時から徹底したスパルタ指導で、練習のハードさは群を抜いていた。

工夫に満ちた練習

 練習内容にも工夫をこらした。体格のいい本土のチームに勝つため、いち早くウエートトレーニングを導入。出場機会が少ない1年生による「1年生大会」、遠投や塁間走のタイムなどを競う冬場の「野球部対抗競技大会」など、今も続く沖縄野球隆盛の礎は、栽が中心になってスタートさせたものだ。

 栽は80年から率いた沖縄水産も甲子園の常連に育て上げた。同校は県内全域から入学可能な唯一の公立校で、有力選手を集結させられる利点があった。徹底的に勝負にこだわる栽の個性が、沖縄を高校野球の強豪県に押し上げたのは確かだ。

後進が受け継ぐ魂

 08年夏に浦添商を甲子園4強に導いた神谷嘉宗(現美里工監督)も「打倒沖水」を目指した一人だ。「栽さんに追い付き、追い越したい。その一心でした」。教え子の金城も中京大卒業後は愛知県の弥富(現愛知黎明)を長く率いたが、「栽さんと同じ舞台で戦いたい」という理由で沖縄尚学に移った。

 金城は言う。「栽さんは自分の人生で絶対に外せない人。自分も比嘉(現沖縄尚学監督)もセンバツで優勝し、我喜屋さん(興南監督)は春夏連覇したが、あの時代にあれだけの成績を残した栽さんには及ばない」

 悲劇のエースとなった大野は、野手としてプロ入り。巨人、ダイエーで7年間プレーし、5安打を放った。現在は母校の九州共立大を運営する福原学園の沖縄事務所長を務めるとともに、中学生を指導する。今も曲がったままの右肘には、やけどの痕が残っている。

毎晩のマッサージ

 「(91年は)春から肘を痛めていたが、夏の甲子園で監督は痛み止めを使わせなかった。その代わりに毎晩黙って右肘をマッサージしてくれた。やけどはその時の摩擦の熱でできたんです」

 大野のけがが契機となり、甲子園に出場する投手は肩と肘の検査が行われるようになった。「あの時は決勝も投げるのが当然だと考えていた。監督は何も言わなかったけど、思いは伝わった。今は感謝しています」。大野は24年前の記憶をたどった。 (前田泰子、相島聡司)

 ▼栽弘義(さい・ひろよし) 1941(昭和16)年5月11日、沖縄県糸満市生まれ。糸満高から中京大を経て、64年の小禄高を皮切りに監督生活をスタート。甲子園へは豊見城高を6回、沖縄水産高を11回導いた。石嶺和彦、上原晃、新垣渚ら多くのプロ選手を育て2002年3月に沖縄水産高を定年退職後も監督を続けた。07年5月8日に呼吸不全のため65歳で死去。

「島守」が結んだ糸満高と兵庫高

最後の官選沖縄県知事・島田叡

島田叡

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 沖縄県民の命を救った「島守」は今も球児たちを見守っている。神戸二中(現兵庫高)の元球児で、太平洋戦争末期に政府が選んだ最後の官選知事として沖縄に赴任した島田叡(あきら)。その功績をしのぶ顕彰碑の除幕式が、6月26日に沖縄セルラースタジアム那覇で行われた。有志の寄付によって完成し、70年前に激しい地上戦の中で島田が消息を絶ったとされる同日に披露された。

 神戸二中から三高(現京大など)、東京帝大(現東大)を経て内務官僚となった島田だが、学生時代は野球に熱中。俊足巧打の外野手だったという。毎年8月に行われる沖縄県新人戦の優勝杯は「島田杯」。兵庫高OBらから64年に沖縄県高野連に贈呈されたものだ。甲子園を目指す県内の下級生は、まず島田の名を目指して戦っている。

練習試合後に記念撮影する沖縄・糸満高と兵庫高の選手たち=3月16日、神戸市のあじさいスタジアム北神戸で

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 玉砕覚悟の沖縄で生きることを説き、10万人もの命を救ったとされる島田。消息を絶った糸満市から今春センバツに出場した糸満高は、兵庫高と交流戦を行った。同校の上原忠監督は「生徒たちに命の大切さを感じてもらいたい。野球を通じて人間性を高めることが大事だと思った」と語った。「島守」の魂は、白球を通じて島の球児に受け継がれている。

【へぇ〜】エースとして、監督として甲子園を制した比嘉公也

真田らに続く偉業

 栽が全国区に押し上げた沖縄の高校野球。悲願の県勢甲子園初制覇を果たしたのは、1999(平成11)年センバツの沖縄尚学だった。エースは比嘉公也。2008(平成20)年センバツでは母校の監督として頂点に立ち、選手と指導者の両方で甲子園を制する偉業を成した。

 「自分たちは『1回勝てれば』と思っていたチーム。08年は力が全然上でした」。比嘉は笑うが、紫紺の優勝旗を手にした「成功体験」は大きかった。「自分たちの優勝から沖縄全体が『頑張ればいける』という雰囲気になった」と明かす。

 選手と指導者、しかも主戦投手として全国の頂点に立った人物は数少ない。戦前の40(昭和15)年夏に和歌山県の海草中(現向陽高)のエースとして大会2連覇し、戦後の63(昭和38)年夏に明星(大阪)を率いて頂点に導いた真田重蔵らに続く快挙だった。

 近年はプロアマの雪解けが進み、プロ経験者が高校野球の監督などを務めるケースも増えた。89(平成元)年夏に仙台育英のエースとした準優勝した大越基も、12(平成24)年センバツで早鞆(山口)を甲子園に導いている。比嘉に続く「エース兼優勝監督」の誕生も近いかもしれない。

 ◆お知らせ KOSHIEN新世紀では、高校野球ファンの皆さまにアンケートを行っています。項目は(1)過去最強チームはどこか(2)歴史に残る名勝負は?(3)好きな高校球児の3点です。結果を集計、分析して秋をめどに記事化する予定です。

 はがきに〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号とアンケートのそれぞれの答えを明記し、〒460 8511 中日スポーツ「KOSHIEN新世紀アンケート」係まで。メール(nsupo@chunichi.co.jp)でも受け付けます。ご協力よろしくお願いします。

(次回は8月3日掲載)

 

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