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【KOSHIEN新世紀】

「怪物」たちの真実(1) 池永正明

2015年6月9日 紙面から

1963年センバツ&夏の甲子園

 100年を迎える甲子園の歴史には、並外れた実力で「怪物」と呼ばれた選手たちがいる。1963(昭和38)年に春優勝、夏準優勝した下関商(山口)の2年生エース、池永正明もその一人だ。度胸満点の投球で「おとこ気のマウンド」と称された右腕を紹介する。 (文中敬称略)

西鉄時代の池永正明の投球フォーム=1965年ごろ撮影

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球種は2つだけ

 下関商の池永正明。山口県豊北町(現下関市)出身で、漁師で宮相撲の横綱を張ったこともある父から筋肉質でバネのある体を受け継いだ。海に育まれた粘り強い下半身は、あの「神様」稲尾和久と重なる。

 身体能力の高さを物語る逸話は数知れず。野球を本格的に始めた神玉中では、剛速球を捕り損ねた捕手が歯を折った。陸上の三種競技では山口県記録をつくった…。近隣では有名だった池永少年は、史上初の完全試合達成で知られる藤本英雄らを生んだ名門・下関商へと進んだ。

 「下関まで山陰線で1時間半かかる田舎の子だし、下商がどれぐらいの名門かもよく知らんやった」

 高校時代の球種は直球とドロップ(縦のカーブ)のみ。「直球は140キロぐらい。ドロップは垂直にがくっと落ちた」。当時はスピードガンがない時代。球速は池永の「自己申告」だが、捕手の手が腫れ上がる球威と抜群の制球力があった。

 1年秋の新チームからはエースになり、63年の第35回センバツで甲子園に初登場。上の連続写真は高卒1年目で20勝した西鉄時代の65年ごろの投球フォームだが、重心の低さと投球後の守備への備えが印象的。高校時代からの完成度の高さがうかがえる。

インタビューに答える池永正明=福岡市内で(式町要撮影)

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【春】明星完封で勢い

 初戦の相手は優勝候補の明星(大阪)だった。池永が「甲子園で一番うれしかった」と振り返る試合だ。当時は情報も少ない時代。「最初にマウンドに上がったときは震えた。相手は強い関西の優勝候補。不安ばかりだった」と明かす。

 強打の明星を散発3安打完封。同級生で三塁手の岡田希代達は「池永が明星を抑えるうちに『俺たちの方が強い』と思えた。(当時172センチ、75キロの)池永がマウンドで本当に大きく見えた」と話す。

 2回戦は海南(和歌山)を延長16回の末、池永自身のサヨナラ打で下した。さらに御所工(奈良)、市神港(兵庫)と関西勢を接戦で撃破。決勝は北海(北海道)との対戦。準決勝で早実(東京)を大逆転で破った猛打と足のチームだった。

 「(準々決勝から3連投で)余裕はないし、無我夢中だった。外の直球で追い込んで、ドロップで勝負。試合前には3対7で不利と言われとったけどね」。決勝のスコアは10−0。全5試合、計52イニングを1人で投げ抜き、11度目のセンバツ出場だった下関商を頂点に導いた。

 優勝インタビューでは、観客席で涙ぐむ父に「父さん、聞こえるか。元気を出せ」と呼び掛けた芯の強さも有名だ。もっとも、池永は「わんわん泣きたかったのに、親が先やったから。何か言うしかないやないね」といたずらっぽく笑う。

 春の王者として臨んだ夏。池永の右腕はさらにすごみを増した。山口大会では準々決勝の柳井戦で完全試合を達成するなど、43イニング連続無失点で甲子園に乗り込んだ。「自分でもすごいことをしとると思った。絶好調だった」と振り返る。

【夏】決勝で明星に涙

 初戦は富山商を1−0で完封したが、続く松商学園(長野)戦で不測の事態が起きた。5点リードの5回。「足も自信があった」という一走の池永は、捕逸で一気に三進。ヘッドスライディングの際に、体をひねった衝撃と三塁手のタッチで左肩を激しく痛めた。

 「左肩から『グジュッ』と音がした。1球投げたら、もう1回音がした」。左腕が痛みで動かないため、右腕のみの投球動作で松商学園を完封。試合後は「痛くて動かないだけで大したことはない」と強がったが、左肩は亜脱臼していた。

 翌日の首里(沖縄)戦は登板を回避。続く桐生(群馬)戦は中3日の池永が左腕を固定して完投したが、7回の1失点で県大会からの連続無失点は67イニングでストップ。準決勝は今治西(愛媛)にサヨナラ勝ちし、春夏連覇を懸けた決勝へ進んだ。

1963年夏の甲子園で力投 する下関商の池永。左腕を体の前に置いており、2回戦で負傷した後の投球フォームのようだ

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 決勝は春に完封した明星との再戦。初回に先頭の初球バント安打と内野守備の乱れで2点を失った。バントは左腕が伸びない池永を狙ったものだった。「ドロップを多投した記憶がある。体はきつかったね」。2回以降は無失点。6回に自身の三塁打から1点を返したが、ここまでだった。

 「(2回戦で左肩を痛めた後の)彼のピッチングフォームは、左腕をほとんど体から離さずに、腰の回転と、右腕だけで投げるという変則投法であった。(中略)その必死の形相で投げる彼の姿を見ると、ますます闘志が湧いてきたものだ」

 岡田は「下商野球部百年史」にこのように記した。痛み止めを打ちながら投げた池永も「投手はプレートに足が掛かると『いきり立つ』もん」と話す。池永が好投手の条件に挙げる「負けん気と精神力の強さ」を誰よりも備えていたのは、自分自身だった。

プロ通算で103勝

 西鉄では入団から5年で99勝。「黒い霧事件」により、通算103勝で球界を追われたが、2005年に復権した。「甲子園を含め、プロに進んだ投手ともたくさん対戦したが、『すごい』と感じたことは一度もない。それは池永をいつも見ていたから」。国学院大、社会人とプレーを続けた岡田はこう言った。至近距離で怪物を見続けた男の偽らざる思いだった。 (相島聡司)

西鉄ライオンズ時代の尾崎将司(左)と池永正明の両投手=昭和41年、平和台球場で

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【へぇ〜】ジャンボ尾崎が唯一認めたライバル

 3年生となった池永は、翌64年のセンバツにも出場したが、博多工に初戦敗退。その第36回大会を制したのは大型右腕の尾崎将司を擁した徳島海南だ。2人は西鉄に投手として同期入団したが、池永を見た尾崎が「こんなにすごいやつがいたんじゃ」と、すぐに投手をあきらめ、打者に専念。後に退団を申し出て、プロゴルフに転向した。日本ゴルフツアー史上最多の94勝をあげたジャンボ尾崎が、池永への敗北感から誕生したエピソードは有名だ。尾崎はオフィシャルブログで、こうつづっている。

 「ライバルの定義とは、自分より上の人間に対し、意識する事」とした上で「人生の中でたった1人ライバルと呼べる人間が池永正明」だと。しのぎを削った青木功や中嶋常幸ではないのだ。

 もっとも、池永の言い分は違う。「尾崎の方がすごかった。稲尾さんにもそう言われたからね。ゴルフで成功したんで、こっちを立ててくれとるんでしょう」。現在も年に1度は池永が暮らす福岡で旧交を温めている。

 46年度生まれは2人のほかにも星野仙一、山本浩二、衣笠祥雄、有藤通世、田淵幸一らスターがそろう。そんな個性派世代の中でも、池永はひときわ強い光を放っていた。

 「自分と似ている投手? 桑田かな。体もそんなに大きくないし、小回りが利くところがね。すごかったのは江川。球が違う」

 今ならさしずめ「池永世代」と呼ばれたかもしれない。

 ▼池永正明(いけなが・まさあき) 1946(昭和21)年8月18日生まれ、山口県出身の68歳。右投げ右打ち、投手。下関商から65年に西鉄入団。1年目に20勝をあげ、新人王。67年に最多勝。70年5月に永久失格処分となり、2005年に復権した。通算238試合、103勝65敗、防御率2.36。

 ◆お知らせ KOSHIEN新世紀では、高校野球ファンの皆さまにアンケートを行っています。項目は(1)過去最強チームはどこか(2)歴史に残る名勝負は?(3)好きな高校球児の3点です。結果を集計、分析して秋をめどに記事化する予定です。はがきに〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号とアンケートのそれぞれの答えを明記し、〒460 8511 中日スポーツ「KOSHIEN新世紀アンケート」係まで。メール(nsupo@chunichi.co.jp)でも受け付けます。ご協力よろしくお願いします。

(次回は6月23日掲載)

 

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