トップ > 中日スポーツ > スポーツ > KOSHIEN新世紀 > 記事

ここから本文

【KOSHIEN新世紀】

「愛知私学4強」名将物語 しのぎを削った70、80年代

2015年5月12日 10時57分

 愛知に「私学4強」あり−。甲子園通算131勝、全国制覇11回はどちらも全国最多の中京を、春4度制覇の東邦、天才・イチローを生んだ愛工大名電、春夏19度の甲子園出場を誇る享栄が追う構図だった。火花散るライバル関係が、最も熱かった時代を率いた4人の指導者の生き様を掘り起こす。(文中敬称略)

東邦 阪口慶三

写真

ライバルに教えを請うた男 東邦・阪口慶三

合言葉は「打倒中京」

 中京を倒せ! 上司からそう厳命され、胃を患った男がいる。

 「72キロあった体重が、みるみるうちに58キロに減りましてねえ。胃潰瘍でした。医者には手術をと言われましたが、薬で治しました」

 現在は大垣日大を率いる阪口慶三(71)だ。愛大を卒業し、母校に赴任したのが1967(昭和42)年4月。同時に校長に呼ばれ、監督就任を言い渡された。受ければ恩師を追いやることになる。何度も固持したが、最後は人事命令だと言われた。

 「春の東邦」。全国にその名は知れ渡っていたが、夏になると中京の壁にはね返されていた。私学経営も野球部にかかっており、打倒中京は至上命題だった。練習試合で負けただけで怒鳴られる。大会で中京に敗れようものなら「机をドンドンとたたかれたことが何度あったか…」。就任2年目。胃の痛みをこらえ、教えを請いに向かったのは、滝正男(故人)。中京大の監督にして、中京の元監督だった。

 「あんた、ええ度胸しとるな。ライバルのところに学びにきたんか」。敵が懐に飛び込んできたのだ。滝の目は点になった。だが、阪口は食い下がった。「中京が勝つと、新聞の見出しには必ず『さすが』とつく」。その正体が機動力にあると見て、スタートの極意を聞き出そうとしたのだ。

 その執念は3年目の69年から実を結び出す。いずれも県大会での中京との直接対決を制して、51回大会から3年連続で夏の甲子園に出場した。当時の阪口が、選手に繰り返した言葉がある。

 「中京がステンレスなら、おまえたちはブリキだ。だけど2枚、3枚と重ねれば、対等に戦える。だから練習も3倍やるんだ」

 2004年夏に退任するまで、春夏24度の甲子園で通算25勝。山田喜久夫を擁して、89年の第61回センバツでは紫紺の大旗を勝ち取った。通算4度は中京と肩を並べ、全国最多である。

愛工大名電 中村豪

写真

ずば抜けた教え子の面々 愛工大名電 中村豪

工藤、山崎、イチロー

 阪口に遅れること11年。78年秋に母校・名古屋電気(現愛工大名電)の監督に就任したのが中村豪(72)だ。通算224勝の工藤公康、通算403本塁打の山崎武司、そして日米通算4000安打を超え、なおも打ち続けるイチロー。教え子のスケールなら、4人の中で抜きんでている。当時は「3強に行けない子が名電にきた」という中村だが、甲子園へは春夏5度で6勝。しかし今も思い出すのは、4度ある夏の愛知大会準優勝だ。いずれも残り3強との直接対決。とりわけイチローが3年だった91年夏は、優勝候補の筆頭として臨んだが東邦に大敗した。

 分岐点は1回の攻防だった。東邦の先発投手は1年生の水谷完。阪口が決勝のために隠してきた秘密兵器だった。さすがに緊張したのだろう。名電はいきなり無死一、二塁。3番は現在、NPB審判員を務める深谷篤だった。犠打もあり得る場面だったが、中村には阪口の言葉が引っ掛かっていた。

 「あしたは鈴木君は満塁でも敬遠する。1点を捨ててもいい」

 準決勝まで打率は7割2分、17打点、3本塁打の12盗塁。走者を進めれば、それこそ敬遠される。イチローの次に信頼していた深谷に命じたのはランエンドヒット。だが、結果は最悪の三振ゲッツー。エースのイチローは抑えを予定していたが、2番手投手が2回までに7点を失った。

 「阪口さんには本当に勝てなんだねえ。上手にマスコミを使う。(敬遠を予告する)その声が聞こえてくるんだわ。勝負をかけたんだけど、あれで流れが変わった」

甘言を弄しない人間性 享栄 柴垣旭延

写真

甘言を弄しない人間性 享栄 柴垣旭延

手の内隠しを徹底

 したたかでなければ愛知は勝ち抜けない。その後の名電隆盛の礎を築いた中村だが、その分だけ辛酸もなめた。それは享栄の柴垣旭延(73)も同じだ。4人の中ではただ1人、今も母校の監督だ。79年春から07年まで率い、13年から復帰。春夏4度ずつの甲子園で、計6勝をあげた。最強は近藤真一、長谷部裕(いずれものちに中日)のバッテリーで春夏連続出場した86年だろう。おもしろいのは近藤が享栄に進んだ理由だ。当初は中京進学で決まっていたという。

 「ところが中3の夏に杉浦監督がもう辞めると聞いて。それなら話が違うからと、白紙に戻したんです。ほかにいくつか勧誘していただいたけど、柴垣さんだけなんです。『どうしても我が校へ』と言わなかったのは。それで逆に、この人について行こうと思ったんです。実際、本当にいってよかった」。甘言を弄(ろう)しない柴垣の人間性に、15歳の近藤は引かれたのだ。

 「近藤の代には練習ボイコットされたこともあるんですよ(笑)。あのころと比べれば、今の子は優等生が多い。個性がないとも言えますが」

 柴垣は苦笑いでこんな話をしてくれた。阪口、中村と共通しているのは、しのぎを削った70、80年代は「ピリピリしていた」、「練習試合なんかやるわけない」、「どうすれば公式戦で勝てるか。強く意識した」という緊張感。まさしく兵(つわもの)どもが夢の跡…。(渋谷真)

中京大中京 杉浦藤文

写真

必ず甲子園に連れて行った親分 中京大中京 杉浦藤文

追われる苦しさ

 古くは3連覇あり。記憶に新しいところでは、堂林翔太の号泣の栄冠あり。「中京」の名は愛知県のみならず、全国に轟(とどろ)いている。1964(昭和39)年春、早大卒業と同時に名門の監督に就任したのが杉浦藤文(故人)だ。

 「父の口から、ライバル校のことを聞いたことはないんですよ」。こう話すのは、名古屋市内で不動産会社を営む杉浦の長男・弘文(44)だ。眼中になかったのではない。名門を率いる重圧、追われる側の苦しさがこの言葉にはにじみ出ている。

 「全国優勝すりゃいいってものでもないんだぞと。運がある。コンディションもある。それより、中京に生徒が集まってくれるのは甲子園に行きたいからだと。だから、絶対に1度は連れていかなきゃいけない。それはよく言っていました」

3年目に春夏V

 就任3年目の66年には、春夏連覇。勝ったから言えるセリフかもしれないが、杉浦が自分への義務と課していたのは、在学中に1度は甲子園へ連れて行くことだった。体調を崩し、83年夏に退任するまで春夏13度。部長として出場した2度を含めれば、杉浦の教え子で甲子園を知らずに卒業した学年はない。名門を率いる重責を、見事にまっとうしたのだ。

受け継がれる魂

 至学館の麻王義之(51)、愛知啓成の岡田敬三(51)、豊川の今井陽一(49)。4強を脅かす新勢力の監督は、いずれも杉浦の教え子だ。「親分」と慕われた杉浦は、結果を残し、人も残した。99年8月。杉浦は拡張型心筋症のため、死去した。58歳の若さだった。名古屋市千種区の大乗寺で営まれた葬儀には1670人もの教え子、野球関係者が駆けつけ、親分との別れを惜しんだという。

抱き合って喜ぶ上田投手(中)、穴見捕手(右端)ら三池工ナイン=1965年8月22日

写真

【へぇ〜!】65年夏V・三池工は史上唯一の「甲子園勝率10割」 原貢監督が指揮

 7度の中京大中京(愛知)を筆頭に、59校が夏の頂点に立っているが「甲子園勝率10割」は1校だけ。第47回大会(65年)を制した三池工(福岡)だ。

 昨年死去した原貢(巨人・原辰徳監督の父)が率い、後に南海(現ソフトバンク)に入団する2年生左腕上田卓三を中心に快進撃を続けた。「勝負は力だけでやれるものでなく、チームの和と根性が第一」がモットーの熱血監督とともに、工業高校では唯一の夏の覇者でもある。

 当時、福岡県大牟田市は沈んでいた。石炭産業で栄えた「炭都」は石炭不況に直面。60年に三池争議の舞台になり、63年には戦後最悪の炭じん爆発事故が起きた。苦しむ市民を勇気づける快挙に、優勝パレードは30万人以上が詰めかけた。

 春夏通じて甲子園出場はこの1度きり。原は67年に東海大相模(神奈川)に請われて移り、第52回大会(70年)を制した。すでに国内最大の三井三池炭鉱も閉山しているが、今年は三池工の優勝から50年。8月には大牟田市で記念の懇親会と原をしのぶ会が開かれる。熱血監督が「炭鉱の町」に残した足跡は色あせることはない。

 ◆お知らせ KOSHIEN新世紀では、高校野球ファンの皆さまにアンケートを行います。項目は(1)過去最強チームはどこか(2)歴史に残る名勝負は?(3)好きな高校球児の3点です。結果を集計、分析して秋をめどに記事化する予定です。はがきに〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号とアンケートのそれぞれの答えを明記し、〒460 8511 中日スポーツ「KOSHIEN新世紀アンケート」係まで。ご協力よろしくお願いします。

(次回は5月19日掲載)

 

この記事を印刷する

PR情報

閉じる
中日スポーツ 東京中日スポーツ 中日スポーツ 東京中日スポーツ 中日スポーツ購読案内 東京中日スポーツ購読案内 中日スポーツ購読案内 東京中日スポーツ購読案内 中日新聞フォトサービス 東京中日スポーツ