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【KOSHIEN新世紀】

山下学んだ 尾藤の勝負師魂

2015年4月14日 紙面から

 盟友、師弟関係−。そんな言葉で語り継がれる2人がいる。箕島・尾藤公元監督(故人)と星稜・山下智茂元監督(70)。引退後に甲子園塾を立ち上げた2人だが、互いにユニホームを着ている間は、野球についての話を交わさなかった。山下監督の口から語られた尾藤公監督との真の関係とは−。そこには勝負の世界にいる者にしか分からない流儀があった。 (文中敬称略)

かつて延長18回の死闘を繰り広げた尾藤さん(右)と笑顔でカメラにおさまる山下さん=10年9月23日、甲子園で

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大好きだったビール墓石に

 春の温かい日差しが差し込む中、そこには2人だけの緩やかな時間が流れていた。山下がタバコをふかし、墓前にそっと置いた。そして「腹一杯、飲んでくださいよ」と、大好きだったビールを墓石にかけ流した。

 今年3月。センバツが開幕する直前に、山下は和歌山県内の尾藤が眠る墓前で手を合わせていた。大学中退から社会人生活を経て、たたき上げで箕島を率いた名将と、教師として実直な指導で星稜を強豪校に育て上げたもう1人の名将。公立校と私立校。指導者としての環境も違う。そんな2人を“兄弟”のように引き合わせたのは、史上最高の試合と称された一戦だ。

 1979(昭和54)年夏の第61回大会の3回戦、延長18回の末に箕島が星稜を破った試合。伝説の一戦は後年、再再々試合まで行われ、2010年には当時のメンバーが甲子園に集結した。病床の尾藤も車いすで駆けつけ、山下が「頑張ってください」と声をかけると、尾藤は涙ぐみつつ“最後”のさい配を振るった。

死闘翌年から交流スタート

 翌年3月に尾藤が亡くなったとき、山下は偶然和歌山県に滞在していた。伝説の一戦を担当した4人の元審判員たちと、棺を担いだ。盟友、師弟関係−。そんな言葉で語られてきた2人の絆。死闘の翌年から定期的に練習試合が組まれ、交流はスタートした。だが当時の関係は、晩年とやや違っていたと山下は明かす。

 「意外と野球の話はしなかったんです。どちらかと言えば、僕の悩みを一方的に聞いてもらっていた感じ」。食事の席でも野球談義に花は咲かなかった。「チームをどうつくっていったらいいですか?」。そんな問いかけにも尾藤は、はぐらかし続けたという。

 技術論、指導者論を投げかけても答えは返ってこなかった。話題に上るのは「食べ物の話とかだったね。気晴らしをしてもらう感じ」と野球とは一切、関係のない話ばかりだった。そんな尾藤を見て、山下はこう悟ったという。

 「やっぱり勝負の世界に生きている方でしたから、そう自分の考えを戦う相手に言ったりはしない。思えば横浜の渡辺元智さん、東邦の阪口慶三さん(現・大垣日大監督)とも仲は良かったけど、負けてたまるかと思っていた。みんなが、勝負の世界を見ていたからだと思うんです」

一線越えない絶妙バランス

 ユニホームを着ている間は自分で考えろ−。そんなメッセージがあったのかもしれない。少なくとも山下は尾藤の姿から、勝負師の心構えを教えられた。2人は決して一線は越えない、絶妙のバランス関係で成り立っていた。だが94年、その転機は突如として訪れた。

 箕島−星稜の練習試合前、「腰が痛いからノックしてくれんか」。尾藤から依頼を受けた山下は、快諾すると同時に「ウチの生徒に話をしてください」と逆提案し、実現した。初めて互いの教え子が交わった瞬間、勝負師としての関係は終わった。尾藤から引退をほのめかされたのはその直後。「本当に仲良くなったのは引退してからでしたよ」と、2人は高校野球の発展へ手を携えて歩みを進めることになる。

 「僕たちの失敗を繰り返さないように。失敗を人前で話すのはやっぱり恥ずかしいんですよ。でもそれを知った指導者が新しい高校野球を、甲子園をつくってほしいなと」と山下。手を携えてつくった若手指導者を育成する場所は、08年に「甲子園塾」という形となって実現した。

 ただ山下は現状に警鐘を鳴らす。「今の若い監督はすぐ連絡を取ってお互いのことを話す。生徒を育てるためには土を作って、耕して、水をあげて。そのやり方を生徒のために自分で一生懸命考えないと」。尾藤から学んだ“勝負師の魂”−。それはきっと、戦友によって後世に受け継がれていく。

  (重松健三)

箕島イズムを受け継ぐ尾藤強監督

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長男の尾藤強監督が箕島イズム受け継ぐ

 箕島イズムは尾藤公の長男で、13年から母校の指揮を執る強(45)が受け継いでいる。

 同年に29年ぶりとなる夏の甲子園へ導き、センバツ選考対象となる昨秋の近畿大会でも8強入り。名門復活を強く印象づけている。その指導方針の根底にあるのが「ベンチ入りメンバー20人を能力の高い選手から順に選んでも、絶対に勝てない」。遠くへ飛ばせるから、速い球を投げられるから。それよりも尾藤が重視するのは普段の生活態度だ。

 授業を受ける姿勢、目の前のゴミをすぐ拾う心−。ミーティングの中で「それができない子はここ一発の場面で弱い。ここという勝負所で力を発揮できない」と選手たちを諭す。84年に3番・エースで夏の甲子園に出場したOBの嶋田章弘(現・阪神スコアラー)は「(尾藤公監督も)あいさつ、一般的な礼儀作法には厳しかった」と語る。技術だけではない、心の野球。それが箕島イズムだ。

1979年8月16日箕島対星稜延長18回裏箕島1死一、二塁、上野の左前打で二走辻内が生還。手前は星稜堅田=甲子園で

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◆箕島−星稜の死闘

 1−1の延長12回、星稜は1死一、二塁で石黒が二ゴロ。しかし、二塁手が取り損なって1点を勝ち越した。その裏、箕島は2死から嶋田の本塁打で追い付いた。

 延長16回、星稜は川井の死球と堅田の二塁強襲安打などで2死一、三塁とし、山下の右翼線適時打で再び勝ち越し。その裏、2死から箕島・森川が放ったファウルゾーンへの飛球を、星稜の一塁手・加藤が人工芝に足を取られ転倒し、捕球できなかった。直後に森川が左翼へ同点本塁打を放った。

 延長18回に箕島は2四球で1死一、二塁とし、上野がサヨナラ打。3時間50分の激闘にケリを付けた。勢いを付けた箕島は、史上3校目となる春夏連覇を飾った。

 ▼山下智茂(やました・ともしげ) 1945(昭和20)年2月25日、石川県生まれの70歳。門前高から駒大をへて星稜高の監督に就任。2005年に退くまで、春夏25度の甲子園に出場し、95年夏の準優勝など22勝25敗。教え子には小松辰雄、松井秀喜らがいる。星稜高野球部の名誉監督。

 ▼尾藤公(びとう・ただし) 1942(昭和17)年10月23日、和歌山県有田市生まれ。箕島高では捕手として活躍も甲子園出場はなし。66年に同校監督就任。途中で一度退くも、95年夏まで春夏の甲子園に14度出場。4度の全国制覇など通算35勝10敗。甲子園での延長戦は、星稜戦を含めて5戦すべてサヨナラ勝ちだった。2011年3月6日死去。

2010年12月、甲子園塾でノックの方法を説明する星稜・山下さん=大阪市旭区で

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【へぇ〜!】甲子園塾 若き指導者を教育 2代目の山下塾長

 高野連が指導者経験10年未満の指導者を対象に、毎年開講している「甲子園塾」。08年から尾藤公を初代塾長としてスタートし、現在は山下が2代目塾長だ。

 技術指導から、指導者としての心構えなど、2日間みっちりとプログラムが組まれる。過去には「禅のノック」と称された山下のノックが実演され、若手指導者たちはそのテンポ、技術、集中力の高め方を学んだ。

 昨年12月に開催された甲子園塾では履正社・岡田監督、前橋育英・荒井監督が特別講師としてチームづくりの基礎を伝授。また「世界的な流れから、高校野球も避けては通れない」(山下塾長)と、JADA(日本アンチドーピング機構)から講師を呼び、ドーピング対策の指導も行った。

 立ち上げ時には「体罰に頼らない指導を。絶対に手を挙げるな」と尾藤が涙を流しながら訴えた一幕もあったという。累計ですでに300人を超える受講者が、全国の舞台を踏むケースも近年は増えてきた。尾藤が種をまき、山下が育てた「甲子園の花」は、しっかりと根付いている。

(次回は4月28日掲載)

 

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