トップ > 中日スポーツ > スポーツ > KOSHIEN新世紀 > 記事

ここから本文

【KOSHIEN新世紀】

愛知一中、敗者から頂点 「甲子園100年」企画第1弾

2015年2月10日 15時53分

3回大会で優勝した愛知一中のメンバー

写真

1917年、3回大会優勝

 1915(大正4)年8月18日。第1回「全国中等学校優勝野球大会」が開催された。甲子園球場が完成するのはこの9年後、プロ野球が誕生するのは19年後のことだ。日本野球の種子は学校にまかれ、教育が肥料となって大きく育ってきた。今年で100年。今や「甲子園」は、高校野球の代名詞となった。1世紀分の歴史とドラマを掘り起こす。第1回は、史上唯一の「一度は負けた夏の覇者」。勝ったがゆえに敗者復活制を撤廃させた、愛知一中(現旭丘高)の軌跡をたどる。 (文中敬称略)

優勝旗を受け取る愛知一中のエースで主将の長谷川武治さん

写真

翌日再試合 延長14回1−0

 「負ければ終わり」が大前提の夏に、一度は敗れた覇者が存在する。100年を数える歴史で唯一のチームが1917(大正6)年、第3回大会を制した愛知一中だ。

 第一次世界大戦の激戦が続き、遠くロシアでは革命が勃発する。そんな時局で開催された大会には、全国118校から勝ち上がった12校が参加。2大会使用した豊中球場から収容能力の高い鳴尾運動場に舞台を移し、前年度に続き敗者復活制が採用された。

 1回戦で敗れた6校から主催者抽選で復活できるのは4校。当時の主将兼エースだった長谷川武治(86年に死去)は、久保田高行の著書『高校野球百年』の中で「このときの喜びの気持ちの方が、むしろ優勝した際の喜びよりも大きかった」と語っているほどだ。

5日間6ゲーム 長谷川投げ抜く

 6分の4で敗者復活したのが最初の幸運。関西学院との決勝戦では、あと1死でコールドゲームとなる土俵際で、試合途中からの激しい夕立に救われた。長谷川は後に『アサヒグラフ』の取材に「雨の中止は審判がハカマ姿でゲームを続けることができなくなったため」と答えているが、このドロン(ドロー)ゲームが2度目の幸運。しかし、見逃してはならないのは5日連続で6試合、計56イニングを長谷川1人で投げきっての優勝だったという点だ。

 大会を通じて本塁打ゼロ。中でも愛知一中のチーム打率は1割3分9厘と、11校が参加した東海5県(静岡、愛知、岐阜、三重、滋賀)大会では4戦で57得点した攻撃力は影を潜めた。その攻撃陣を支えたのが、50イニングで52三振を奪った長谷川の力投だった。

 「おやじは無口な人で、実は本人の口から優勝したと聞いたことは一度もないんです。エピソードは、みんな人から聞かされました。ただ、仕事をするようになって、必ず『長谷川武治さんの息子です』と紹介していただけたんです」

 長男・武彦(76)には、優しい父の記憶しかない。野球を強制されなかったし、当時には珍しく学校の懇談会も長谷川家は父が出席した。

 「何事も自分の力でやれるならやりなさいと。そういう人でした。温かく見守るだけで、ひと言も口を出さなかったのは大したものだと思います」

長谷川さんは身長170センチで80キロとがっしりした体格だったという(当時の写真はいずれも長谷川家提供)

写真

大学は相撲を選択 ゴルフで再び脚光

 長谷川家は名古屋の城下町作りにも携わったという代々、材木商を営む旧家。のちの全国制覇投手は1899(明治32)年11月3日に9人兄弟の8番目として生まれた。少年時代を日本野球のルーツ校的存在である慶応で過ごしたというのも何かの縁だっただろう。武彦によると身長は170センチほど。「体重は80キロはあったと思う。がっしりした体格でした」。過酷な連戦を投げ抜いた強さの秘密は、この骨格にあったのかもしれない。

 当時は職業野球など影も形もない。卒業後は東農大に進み、相撲へと転向する。その後、名古屋で保険代理店を営みつつ、「草分けゴルファー」として再びその名をとどろかす。のちに「名古屋で初めてエージシュートを成し遂げた」というキャリアと知識を頼られ、設計や監修で携わったゴルフコースは東海地方だけで20近くある。

先輩が語り継ぐ 122年の伝統

 1893(明治26)年創部。草創期の「夏」に輝かしい戦績を残した先輩を、在校時に遠くから見つめていたのは和泉喜久磨(67)。現在は同校野球部のOB会組織「愛知一中 旭丘高校野球倶楽部」の理事長を務める。

 「今ならしかられる話ですけど、僕たちのころは夏の大会前になるとOBの方たちが料亭に招待してくれたんです。そこで『おい、食え』と」

 現役はごちそうに箸をつけ、OBは酒を飲む。そこで伝統を教わり、歴史を知る。「オレたちの先輩が最初に野球をしたんだ。強い、弱いは仕方ないが、それだけは忘れるなよ…」。そんな話をしてくれる先輩の向こうには、そのまた先輩がいる。

 「長谷川さんは一番上にドンと座ってらした」(和泉)。120年を超える野球部の歴史において、長谷川の時代も今も変わらぬものがある。白い帽子に黒線2本。胸には金鯱をあしらった校章のみ。クラシックなユニホームも、ごく数年間を除いて守られてきた伝統だ。愛知一中は第15回(昭和4年)を最後に甲子園から遠ざかっている。しかし、歴史と伝統のおかげで甲子園の土を踏めた後輩がいる。

第80回大会の開会式リハーサルで行進する柳生剛志さん=1998年8月5日、甲子園球場で

写真

地方大会には皆勤 甲子園の土を踏む

 第1回から1回も欠かさず、地方大会に出場皆勤しているのは旭丘高を含む15校。1998(平成10)年の第80回記念大会では、その流れをくむ15校の現役主将が入場行進に参加した。

 「歴史があるとは聞いていましたが、連続出場していることは知らなかったし、それが15校しかないと聞いてびっくりでした。割と落ち着いて、『トンボがいっぱい飛んでるな』なんて考えながら歩きました」

 土も持ち帰った柳生剛志(34)は、17年前の行進を鮮明に記憶していた。思えば、長谷川が制した第3回は、初めて入場行進が行われた大会でもあった。現在の旭丘高の監督は、野球部OBでもある磯部智洋(33)。昨春の東大合格者が24人という超難関校ゆえに「甲子園」はなかなか遠いが、伝統は息づいているという。

 「今の生徒たちはインターネットで調べますから、ちゃんと先輩のことを知っていますよ。それにOBの方々との接点も増えてきているんです」

 長谷川の快挙から98年目。この夏も、伝統の金鯱章は元気に球を追う。 (渋谷真)

 ◆旭丘高校 名古屋市東区にある男女共学の県立高校。1870(明治3)年に尾張藩の設立した藩校・洋学校が起源。1899(同32)年に愛知県第一中学校と改称。1948(昭和23)年から現校名。加藤高明元内角総理大臣ら政財界に多数の卒業生を輩出。小説家の二葉亭四迷、芥川賞作家の赤瀬川原平、女優の赤座美代子も卒業生。プロ野球OBには元中日の加藤進らがいる。

写真

【へぇ〜!】これまで5会場で開催…現存は1つ

 この連載のカット「KOSHIEN新世紀」は、高校生たちがその青春を賭して、ありったけの力を出し切る場所、大会という象徴的な意味を込めた。

 発祥の地は春夏ともに「甲子園」ではない。大阪府豊中市。阪急豊中駅から住宅街を西に歩くと、赤れんがに張られたいくつかのレリーフが目に入る。その一つに書かれた「高校野球発祥の地」の文字…。

 1913年、箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)が建設した「豊中グラウンド」の跡地だ。創業者・小林一三は、野球のレジャー産業化にも熱心で、15年、全国中等学校優勝野球大会(夏の選手権)開催にこぎつける。

 ただ豊中は収容人数が2000人と手狭だったことに阪急の先輩格だった阪神電鉄が着目。現西宮市鳴尾浜地区にあった鳴尾競馬場内に2面の野球場を開設(16年)。高まる人気の受け皿として翌年第3回から鳴尾運動場に会場が移る。

 その鳴尾運動場も観客を収容しきれず、阪神電鉄は4万5000人収容の甲子園球場を24年に完成、同年(第10回大会)から開催地とする。

第1回選抜大会の開催地となった名古屋市の山本球場(1982年5月撮影)

写真

 選抜大会が始まったのもこの年からだったが第1回は、東西のバランスや、販売戦略などが絡み名古屋市の山本球場で行われた(翌年から甲子園)。ちなみに同球場は阪神−巨人の公式戦初開催地(36年7月15日)でもあった。さらに甲子園にほどちかい西宮球場でも戦後甲子園が使えない、出場校増加による日程消化などの理由で46年、58年、63年に夏の大会が行われている。

 これら5球場のうち現存するのは甲子園ただ一つだ。 (西下純)

 ◆お知らせ KOSHIEN新世紀では、高校野球ファンの皆さまにアンケートを行います。項目は(1)過去最強チームはどこか(2)歴史に残る名勝負は?(3)好きな高校球児の3点です。結果を集計、分析して秋をめどに記事化する予定です。はがきに〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号とアンケートそれぞれの答えを明記し、〒460 8511 中日スポーツ「KOSHIEN新世紀アンケート」係まで。ご協力よろしくお願いします。

(次回は2月24日掲載)

 

この記事を印刷する

PR情報

閉じる
中日スポーツ 東京中日スポーツ 中日スポーツ 東京中日スポーツ 中日スポーツ購読案内 東京中日スポーツ購読案内 中日スポーツ購読案内 東京中日スポーツ購読案内 中日新聞フォトサービス 東京中日スポーツ