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【KOSHIEN新世紀】

「甲子園の土」物語

2015年3月17日 紙面から

 21日に開幕するセンバツ甲子園。数多くの思い出とともに、球児は「甲子園の土」を持ち帰る。現在では当然のようになった恒例行事は、いつ始まったのか。持ち帰った土はその後どうなるのか−。「甲子園の土」にまつわる物語を追った。 (文中敬称略)

1948年に夏の甲子園を2連覇した小倉の福嶋一雄投手

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無意識のうちにポケットへ 第31回夏の甲子園

 「甲子園の土」を持ち帰っていたことは、北九州市の自宅に届いた手紙で知った。小倉(福岡)が夏3連覇を逃した1949(昭和24)年の第31回大会。準々決勝で倉敷工(岡山)に敗れたエース・福嶋一雄(84)は「杯に1杯ほど」の土をユニホームのズボンのポケットから見つけた。

 大会副審判長からの速達には「君のポケットに大切なものが入っている」とあった。第30回(48年)は史上2人目となる全5試合を完封して連覇した福嶋だが、最上級生だったこの年は右肘を故障。最後は直球しか投げられずに敗れた。「甲子園を去りがたい思いだった」。無意識のうちに足元の土を手にしていたのだという。

 このエピソードから福嶋が「甲子園の土を最初に持ち帰った球児」という説が生まれた。ただ、本人は「土を拾ったことは覚えていないし、私が(持ち帰った)第1号かどうかということも知らない。そのことについては肯定も否定もしませんよ」と穏やかに笑う。

 「第1号」には諸説ある。夏の第23回(37年)で準優勝した熊本工の川上哲治説もその1つ。巨人で選手や監督として一時代を築き、一昨年に93歳で世を去った打撃の神様。この年は3年前の夏に続く準優勝だった。

熊本工から巨人に進み、「打撃の神様」と呼ばれたた川上哲治(写真は1946年の巨人時代)

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「川上さん第1号」 甲子園球場が主張

 「川上さんが第1号と聞いている」とするのは阪神甲子園球場。その一方で熊本工や「川上哲治記念球場」にゆかりの品を展示する故郷の熊本県人吉市にも、はっきりとした品は残されていなかった。ただ『不滅の高校野球 上』(松尾俊治著、ベースボール・マガジン社)には「私は記念に甲子園の土を袋に入れて持ち帰り、熊本工のマウンドにまいた」という川上自身の言葉がある。第1号かどうかは別として、中京商に敗れた川上が土を持ち帰ったことは間違いない。

 本当の「持ち帰り第1号」は誰だったのか−。福嶋は「当時は甲子園の土のことで、今みたいに騒ぐことはなかった。私が『第1号』といわれるのは、グラウンドで直接ポケットに入れたということでしょう」と話すと、次の言葉を続けた。

 「宿舎に戻ってスパイクなどに付いた土を落とし、そのわずかな土を紙などに包んで持ち帰る。みんなこっそり持ち帰っていた。そういうのが『第1号』なんじゃないでしょうか。昔はそういうことがあったんですよ」

 川上が土をまいた熊本工のグラウンドからは、多くの名選手が育った。福嶋は自宅のゴムの木の植木鉢に土を入れた。「ゴムの木を見ると、甲子園や猛練習に耐えたことを思い出して力になった」。ゴムの木は植え替えを重ね、今も緑の葉を茂らせている。

夏の甲子園へ沖縄代表として出場した首里高チームが持ち帰れなかった土の代わりに小石を送り届けた日本航空の近藤充子=1958年9月6日撮影

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植物検疫法に抵触 全国で反響 第40回夏の甲子園

 福嶋が無意識のうちに土を持ち帰ってから9年後の第40回(58年)。甲子園の土をめぐるあまりにも有名な出来事があった。米統治下の沖縄から初めて甲子園の土を踏んだ首里は、敦賀(福井)に0−3で惜敗。本土のチームと同じように土を持ち帰ったが、植物検疫法に抵触するとして海に捨てられた。このことは全国に反響を呼び、高校には甲子園の土で作った楽焼の皿などが届き、日本航空の客室乗務員・近藤充子からは甲子園の小石が贈られた。

 58年9月6日付の琉球新報は、主将の仲宗根弘の言葉を紹介している。「記念にとポジションの近くからとってきた土だったが法に違反するということであきらめていた。沖縄の海で捨てられたのはつらかった。だから近藤さんの好意はいつまでも忘れない」。この小石は、同校の甲子園出場記念碑の「友愛の碑」に埋め込まれた。

 甲子園の土は、鹿児島産などの黒土と中国産の砂をミックスしたもの。風で飛ばされたり、雨で流されたりするため、昨年は4トントラック4台分が補充された。球児が持ち帰るのは、そのうちのごく一部だが、これからも多くのドラマの「証人」になることだろう。 (相島聡司)

親戚らに配布、砂時計に加工… 「小瓶に」が定番

 多くの球児が持ち帰る甲子園の土は、それからどうなる? 川上のように母校のグラウンドにまくのか、福嶋のように個人で保管するのか…。そこでプロ野球に進んだ「元球児」たちに、甲子園の土について聞いてみた。

 1987(昭和62)年に春夏連覇したPL学園(大阪)の主将だった立浪和義(45)は、3年夏の決勝戦終了後に拾った土が、今も実家にあるという。

 「ショートの守備位置の土を持ち帰りました。春は夏に来る。そう思っていましたから」

 その11年後の98年に横浜のエースとして春夏連覇を達成したのがソフトバンクの松坂大輔(34)。「僕は持ってないです。執着がないんで」と笑う。頼まれて持ち帰ったが、親戚や友達などに全部配り、手元には残さなかったという。

 10年に興南(沖縄)で春夏連覇した同・島袋洋奨(22)も、最後の夏に初めて土を持ち帰った。

 現在は小瓶に入れ、実家のテレビ横に置いている。

朝倉は持ち帰らず 直倫は持ち帰る

 東邦(愛知)から99年の春夏に連続出場した中日の朝倉健太(33)は「持って帰っていません」とキッパリ。「そこで野球が終わるわけじゃないと思っていたので」とプロ入りを見据えての通過点だった。05年春に2年生4番として愛工大名電(愛知)を優勝に導き、夏にも2度出場した中日の堂上直倫(26)は「僕は持ち帰りました」。実家で大切に飾られている。

 おしゃれなのは、帝京(東京)の4番だったソフトバンクの中村晃(25)だ。スパイク袋に半分の量を持ち帰って、砂時計に加工。中学時代の恩師ら数人にお礼として配った。ちなみに「自分の家に残っているかは知りません」。土にどんな「価値」を見いだすか。まさしく人それぞれ違うようだ。

 ▼福嶋一雄(ふくしま・かずお) 1931(昭和6)年1月6日生まれ、福岡県小倉市(現北九州市)出身の84歳。47年から3年連続で春、夏の全国大会に計6度出場。48年夏は史上2人目の5試合連続完封を成し遂げた。早大では4度のリーグ優勝、八幡製鉄では2度の都市対抗優勝に貢献した。2013年に野球殿堂入り。

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【へぇ〜!】テレビ中継されなかった決勝戦 皇太子ご成婚重なる

 まだ「全国中等学校優勝野球大会」という名称だった第13回(1927年)。8月13日はその後のスポーツ、放送界にとって画期的な1日となった。

 「JOBK、こちら甲子園臨時放送所であります…」。現在のNHK大阪放送局のアナウンサー・魚谷忠の声が、ラジオの前で待つ全国の野球ファンに届けられた。魚谷は市岡中(大阪)の三塁手として、夏の第2回(16年)に出場、準優勝した元球児だ。スポーツ実況の概念がなかった時代。当初は阪神電鉄、朝日新聞ともに「球場に足を運ぶ客が減る」と中継には難色を示したそうだ。

 53年夏にはテレビ中継がスタート。今や海外でも「甲子園」を楽しめる時代だが、実は「テレビ中継のなかった決勝戦」がある。第31回(59年)のセンバツだ。3年ぶりの再戦となった中京商(愛知、現中京大中京、写真)−県岐阜商の東海決戦は、4月8、9日と水入り。ようやく雨が上がった10日は、皇太子(現在の天皇)ご成婚当日だった。

 「世の中はご成婚一色だから、当たり前だよね。それよりも雨が降っていなければ、リードしていたから。非常に思い出深い1日ですよ」

 県岐阜商の3番打者で主将だったのが高木守道(73)だ。降雨強行した8日は、県岐阜商が1−0と優勢だったが、3回表で降雨ノーゲーム。仕切り直しは3−2で中京商が逃げ切り、3度目の紫紺の大旗を手にした。

 ◆お知らせ KOSHIEN新世紀では、高校野球ファンの皆さまにアンケートを行います。項目は(1)過去最強チームはどこか(2)歴史に残る名勝負は?(3)好きな高校球児の3点です。結果を集計、分析して秋をめどに記事化する予定です。はがきに〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号とアンケートのそれぞれの答えを明記し、〒460 8511 中日スポーツ「KOSHIEN新世紀アンケート」係まで。ご協力よろしくお願いします。

(次回は4月14日掲載)

 

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