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【KOSHIEN新世紀】

甲子園が象徴に 復興 勇気 希望

2015年3月10日 紙面から

1995(平成7)年第67回センバツ

 春の、そして夏の風物詩−。あって当たり前の高校野球が突如、外的要因によって開催を危ぶまれる。米騒動、第2次世界大戦では中止を余儀なくされた。しかし、1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災は、いずれも開催直前の、悪夢のような災害だったにもかかわらず、球児たちは甲子園の土を踏んだ。へこたれない姿が、そこにはあった。 (文中敬称略)

あの日、兵庫県に

 20年前の1月17日。最大震度7の激しい揺れが甲子園のある兵庫県を襲った。6000人を超える死者、行方不明者を出した阪神・淡路大震災。『被災地を勇気づけるため』。その言葉にうそはなくても、その言葉通り受け止められない被災者はいくらでもいた。

 被災者の心情、関係者や観客の安全確保、世論、高校野球を続ける意義…。さまざまな場面でぎりぎりの選択と調整が続いた結果、第67回センバツ高校野球は、開催された。

 とりわけ被害が大きかったのが西宮市。前年に報徳学園監督に就任した永田裕治(51)は震災当日、中学部の校舎が焼け落ち、グラウンドに亀裂の入った母校の惨状を目の当たりにした。

 自宅も住める状態ではなく、その日の夜は「『家にいるより安全』と嫁さんを半分だまして、マウンド付近で一夜を明かしました」と言う。監督としての、初めての甲子園出場が現実味を帯びる中での被災だ。行く末に思いをはせる場として、グラウンド以外は考えられなかった。

 その後は小学校の体育館や車中泊を続けながら、対応に追われた。交通網は機能せず、落ち着いて以降も「通学に3時間、練習はできても30分。開催は半信半疑でした」と記憶をたどる。

1995年3月25日 対銚子商戦の3回、中越えに3ランを放つPL学園・福留孝介

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「奇跡だ」逆転の報徳

 兵庫から3校が出場。育英、神港学園が勝ち、報徳学園は北海との初戦、0−3の劣勢を終盤にひっくり返して、大逆転勝利を挙げた。「練習もまともにできていない3校すべてが初戦突破。奇跡だと思いました」と話す。

 この試合は、前日が雨のため3月31日に順延されたものだ。校舎が使えなかった報徳学園は、アルプススタンドで全校応援、そして終業式を行うことができた。また大会期間中に起きた唯一の余震も、試合のなかった30日だった。

 同じ大会に、選手として出場した1人に、PL学園の福留孝介(37)=阪神=がいる。

 当時「被害に遭われた方のことを考えると『プレーしたい』という気持ちだけじゃいけないと思っていた」と複雑な気持ちがあったことを明かす。

1995年3月25日 PL学園を応援するアルプススタンドに浮かび上がった「希望」の人文字

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PL人文字でエール

 大会は、鳴り物禁止。そこでPL学園は、スタンドの人文字で「希望」と描くなどの工夫で、自校球児にとどまらないエールを送った。

 「すごく覚えているね。みんなが前向きになれた大会になったんじゃないかと思う。直接ではないけど『勇気づけられた』『元気をもらった』という声があったみたいだし」と、開催の意義を感じている。

 ヤクルトや日本ハムなどで活躍、今年から巨人の打撃投手となった藤井秀悟(37)も、今治西の中心選手として出場した。

 藤井は「深刻さを知るようになって、大会はなくても仕方ないと思ってました」と言う。

 大阪の宿舎から、電車での甲子園入り。周囲への配慮もあって「電車では全員、立っていたのを覚えています」と、当時の雰囲気を明かしつつ、藤井も「困難な状況の中、開催させてもらえたことは、今でもみんな感謝しています」と神妙に話した。

球児の姿これからも

 1万8000人の死者、行方不明者を出した東日本大震災から4年。直後に開催された第83回センバツで、波佐見(長崎)のエースとして出場したのが松田遼馬(21)=阪神=だ。横浜を破るなど活躍したが「震災の話を入れた選手宣誓が記憶に残っています」と、被災者に寄せる気持ちを、最も強い印象と語った。

 永田は悪夢を克服した高校野球を「思えば、やってよかった。というか、高野連がよくぞやってくれた」と表現した。甲子園の球児の姿は、それこそが何より雄弁なエールとして今年も、これからも続いていく。 (西下純)

2011年3月23日 第83回センバツ開会式で選手宣誓する創志学園・野山慎介主将

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【2011年センバツ選手宣誓全文 創志学園(岡山)・野山慎介主将】

 宣誓。私たちは16年前、阪神淡路大震災の年に生まれました。今、東日本大震災で多くの尊い命が奪われ、私たちの心は悲しみでいっぱいです。被災地ではすべての方々が一丸となり、仲間とともに頑張っておられます。人は、仲間に支えられることで大きな困難を乗り越えることができると信じています。私たちに今できること。それはこの大会を精いっぱい元気を出して戦うことです。がんばろう!日本。生かされている命に感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います。

「やる」で一致団結

 阪神・淡路大震災では高野連会長の牧野直隆(故人)、そして事務局長の田名部和裕(69)は、自身も被災しながらセンバツ開催の可否を判断し、方法を探るという厳しい立場に置かれた。

 田名部は「『やる』と決まったら、みんなが手伝ってくれた。フォロワーシップを感じました」と振り返る。

 例えば兵庫県警や地元の甲子園署が震災対応にかかり切りの分、出場校はすべて大阪に滞在、阪神電車で球場入りするという関係もあり「大阪府警交通対策課には、本当にお世話になった」。応援バスをどう流すか、特設の駐車場から阪神梅田駅まで、ラッシュ時に応援団の動線をどう確保するかなどのアドバイスや、実際の交通整理に頭が下がったという。

 さらには近畿2府4県の高野連理事長に、青森、群馬、新潟その他各地域の元理事長らが市内のマンションに泊まり込んで、チームに2人ずつが総務委員として同行、電車移動などの手伝いをした。

トラブル起こさず

 「復興の妨げにならない大会を目指す」という大命題の下、総務委員の援助により、1件のトラブルも起こさず、大会を乗り切った。

 また総務委員はボランティアを伴って、試合中、甲子園駅の南2キロ四方を自転車で見回る「銀輪隊」を結成。駐車違反などにも目を光らせて、被災した近隣住民の好評を得た。

 この総務委員制度(夏の呼称は本部委員)は現在も引き継がれ、スムーズな大会運営に役立っている。

 東日本大震災の際も「『復興、勇気、希望』のスローガンで95年もできたし、その視点でできた」と田名部。高校野球は困難を跳ね返す象徴でもある。

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【へぇ〜!】応援するゾウ 鳴尾準V後押し 

 春夏の甲子園ではアルプス応援にもルールがある。笛、和太鼓などブラスバンド以外の鳴り物や、紙テープ、紙吹雪は持ち込み禁止。着ぐるみやマスクなどのかぶり物、華美な衣装も禁止されている。

 だが、規定が緩やかだった時代には、今では想像もつかない応援風景があった。

 第23回センバツ(1951年)に、夏を含めて初出場した鳴尾(兵庫)は、何と球場に「アジアゾウ」を連れてきた。

 1回戦の静岡城内(現静岡)戦。甲子園から近い地元校は、球場に隣接する遊園地「阪神パーク」と交渉し、アジアゾウ1頭を借りてきた。応援団長が背中にまたがって入場。のっし、のっしと歩くゾウに、スタンドは大いに盛り上がったという。

 とはいえ、さすがに大会本部から退場を命じられた。それでもゾウの応援に力をもらったのか、エース・野武がノーヒットノーランを達成。この勝利で勢いに乗り、見事に準優勝に輝いた。

 ◆お知らせ KOSHIEN新世紀では、高校野球ファンの皆さまにアンケートを行います。項目は(1)過去最強チームはどこか(2)歴史に残る名勝負は?(3)好きな高校球児の3点です。結果を集計、分析して秋をめどに記事化する予定です。はがきに〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号とアンケートのそれぞれの答えを明記し、〒460 8511 中日スポーツ「KOSHIEN新世紀アンケート」係まで。ご協力よろしくお願いします。

(次回は3月17日掲載)

 

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