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【スポーツ史 平成物語】

武豊、伝説への第一歩 有馬記念オグリキャップ引退レースV

2019年4月10日 紙面から

平成2(1990)年の有馬記念でオグリキャップの花道を飾り、ファンのコールにこたえる武豊=中山競馬場で

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第11部 中央競馬編(1)

 平成から令和へあと少し。「スポーツ史 平成物語」今回は中央競馬編。平成初期はオグリキャップを中心とした第2次競馬ブームで多くの人に競馬が受け入れられるようになった。さらに海外の馬に太刀打ちできなかった日本馬が、世界に追いつき追い越せと、一気にレベルアップし、海外のG1(ローマ数字の1)で普通に勝てるまでに強くなった。大きく発展したこの時代の競馬を3回にわたって振り返る。1回目は“競馬界のレジェンド”日本中央競馬会(JRA)所属・武豊騎手(50)の平成を自身の話とともに振り返る。

 17万7779人が詰め掛けた中山競馬場に「オグリ! オグリ!」と叫ぶ声が響き渡った。平成2(1990)年12月23日の有馬記念。秋2戦完敗続きで、厳しい見方が多かったオグリキャップが引退レースを制し、ファンが“オグリコール”で祝福した。

オグリキャップやディープインパクトなど数々の名馬との思い出を話す武豊=栗東トレーニングセンターで

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 「あの日の中山競馬場はすごかった。ゴールした時は僕自身も感動したけど、スタンドが揺れていた。ファンと一緒に喜べたというのは、騎手人生の中では特別な瞬間だし宝物」と騎乗した武豊は当時のすごさを振り返る。同年の安田記念以来、コンビ2回目のレースで伝説をつくり上げた。

 伝説の始まりは名騎手で当時調教師だった父・邦彦さん(故人)の後押しだった。当初は父が管理するオースミシャダイに騎乗する予定だったが、オグリ陣営から騎乗依頼され「おやじも、そらもう名誉なことだから乗るべきだと言ってくれて。勝てるとは正直思っていなかったけど、ラストランに乗れるうれしさがあった」とコンビが復活した。

 ただ、調教で騎乗し、レース前でも「妙に落ち着いているんで、やっぱり闘争心なんかも薄れてきているのかな」とずっと半信半疑だった。ところがレースは往年の強さを発揮、他馬をねじ伏せる横綱相撲を見せ、ファンを感動させた。

 平成の中央競馬の主役は間違いなく武豊だ。平成元(1989)年、デビュー3年目で米国へ初の海外遠征、国内では初の年間最多勝を記録。名騎手への階段をどんどん駆け上がった。

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 平成初期はオグリキャップの出現で昭和の終わりから火が付いた、第2次競馬ブームのまっただ中。ぬいぐるみが売れ、競馬ゲームが登場し、馬券以外の競馬の楽しみ方が浸透し始めた。JRAはCMで有名芸能人を起用し、イメージアップを図った。幅広い年齢層に支持され、競馬が単なるギャンブルから社会に認知されるようになり、今につながる。

 「昭和と平成ではずいぶん変わった」と武豊は感慨深げに話す。自身も「競馬の良さ、楽しさを一人でも多くの人に知ってもらいたい。僕がきっかけでも競馬が好きになってくれればうれしい」と、いろいろなメディアを通じて競馬の魅力を発信し、イメージアップに貢献してきた一人だ。

 数々の名馬にも巡り合った。オグリキャップの後はメジロマックイーンとの名コンビで沸かせ、サンデーサイレンス産駒が台頭すると、平成10(1998)年にスペシャルウィークで念願の日本ダービー制覇、平成17年にはディープインパクトで三冠。その子キズナで平成25年のダービーを制し、最近ではキタサンブラックとのコンビでファンを魅了してきた。

 海外へは毎年のように遠征。騎手では武豊の兄弟子に当たる河内洋調教師(64)は「背が高くきゃしゃで、力強さが足りなかったけど、米国へ行ってから変わった。ダートで力がないと駄目だから。そこで力強さが付いた。海外へ行くたびにうまくなっていったよ」と証言する。

 海外遠征で騎手としての引き出しを増やし、経験も積んできた。海外はシビアだが「(海外で乗ると)結構ペースなんかも分かってないなと思うし、それを利用して結構勝ってる」。欧米と違い日本は調教時計をとるため、騎手は体感でペースをうまくつかむ。海外と日本のいいところをうまく融合させてレベルアップ、白星を積み重ねてきた。

スペシャルウィークで初めてダービーを制した武豊

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 だからこそ、後輩たちにも経験を積んでほしいと願う。「日本競馬のレベルアップはすごく感じるし、ジョッキー全体(のレベルアップ)も感じるし、すごくいいこと」と前置きしつつ「今は外国人ジョッキーが来ることばかりなんで、日本のジョッキーももっと海外へ行かないとと思う」とハッパを掛ける。

 同期として競馬学校から苦楽を共にしてきた蛯名正義(50)はこう武豊をたたえる。「50歳になって年かと思えるかもしれないけど、トレーニング法とか、ケアの仕方も進化している。ずっとリードしていることはすごいと思う。彼しかできないんじゃないか」

 3月に50歳になり「令和」を迎える。最初の目標は令和元年のダービーを勝つこと。「20代、30代、40代と勝てたので、50代一発目で決めたい気持ちはある。(各年代で勝つのは)なかなかできないと思うんで。あと、キズナの子がデビューするので、来年のダービーからはチャンスがある。そうなれば3世代で勝つ。僕しか経験できない」と笑う。リーディングジョッキーになり、凱旋門賞も勝ちたいという。そして5000勝も。「まあ、難しいとは思うけど、トライしたい。そう思うとやめられない」と競馬界のレジェンドは新時代での活躍に意欲をみせる。果たしてこれだけの騎手が「令和」の時代に現れるのだろうか。

 苦労した時期もあった。平成22(2010)年にレースで落馬し、左肩と腰椎を骨折。「僕自身が苦戦している時」と認めるほど、復帰後大レースでなかなか勝てず、勝ち鞍も伸びず苦しんだ。その状況から立ち直ったのが、平成25年の日本ダービー。東日本大震災からの復興へ、心を一つにとの思いが込められた「絆」が馬名の由来である、ディープインパクト産駒のキズナでダービー5勝目を挙げた。

キズナで5度目のダービー制覇を果たし、声援に応えながら表彰式へ向かう鞍上の武豊=2013年5月26日、東京競馬場で

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 印象的だったのは、レース後のインタビューで「僕は帰ってきました」と語ったことだった。「ダービーでのインタビューは久しぶりだったし、すごくファンに祝福してもらって『お帰り』とか『待ってたよ』とか声が出たので、思わず出た」とあの時の心境を語る。被災地の復興、そしてファンも自身も待っていた完全復活へ明るさをもたらした勝利だった。

 ▼武豊(たけ・ゆたか) 1969年3月15日生まれ、京都府出身。87年3月1日阪神でデビューし、同7日阪神3R、ダイナビショップで初勝利。同年の京都大賞典(G2(ローマ数字の2))でトウカイローマンに騎乗し、重賞初制覇。その年は69勝を挙げ、当時の新人騎手最多勝記録を達成。88年菊花賞でスーパークリークに騎乗し、G1(ローマ数字の1)初制覇。89年初の年間最多勝騎手となる。年間最多勝は18回を記録。海外でも活躍し、競馬界の第一人者となる。JRA通算成績は2万1600戦4053勝(うちG1(ローマ数字の1)76勝含む重賞334勝、9日現在)。170センチ、51キロ。血液型はO。 

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