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【スポーツ史 平成物語】

佐藤琢磨「自転車も大学も辞めて懸けたい」 レーサー養成学校に熱意で入校

2019年3月14日 紙面から

SRS−Fのスカラシップに選ばれた直後。左から金石年弘、松田次生、佐藤琢磨、校長の中嶋悟さん(モビリティランド提供) 

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第10部 モータースポーツ編(4)

 F1、インディカーと活躍を続ける佐藤琢磨(42)は遅咲きの花だ。自転車出身でモータースポーツを始めたのは19歳。年齢制限ギリギリで鈴鹿サーキット(三重県鈴鹿市)が展開するレーサー養成学校「鈴鹿サーキット・レーシングスクール・フォーミュラ(SRS−F)」の門をたたき、日本を代表するレーシングドライバーとなった。成功のきっかけをつくったのは熱くたぎる不屈の精神だった。 (鶴田真也)

 「琢磨はギネス記録になってもおかしくない」。そんなことを指摘するレース関係者は多い。琢磨は大学まで自転車の選手。カート競技に初めて出場してから、たった6年でF1ドライバーの肩書をつかんだからだ。

 「1987年に初めて日本GPを見て衝撃を受けた。あそこから『レース・イコールF1』。自転車で五輪に出たいという思いもあったが、胸の内にずっと秘めていたのはF1ドライバーになること。環境さえ整えば、自分でも4輪の世界でやれる自信もあった。だからSRS−Fに受かった時は、自転車競技への未練は一切なかった」

 初めてカートに乗ったのは1996年の19歳。ジョーダンでF1にデビューしたのは2002年で25歳の時だった。史上最年少の17歳でF1デビューを飾ったマックス・フェルスタッペン(オランダ)は4歳でカートを始めた。レース歴13年だから、琢磨よりも倍以上のキャリアを既に持っていたことになる。

 才能を開花させたきっかけは1997年に「SRS−F」に入校したこと。それまでは畑違いの自転車の世界で活躍し、早大時代には学生王者にも輝いた。積み重ねてきたものをリセットするには一大決心が必要ながら「自転車での自分自身の限界も見えてきた。確かにインターハイや全日本学生選手権で勝ったが、プロの世界とレベルがあまりに違い過ぎて。トレーニングしていると分かる。世界一はまず無理だと思った」。すぐに実行に移した。

 有名な逸話がある。書類選考で門前払いされそうになり、急きょ入校説明会で面接を直訴したことだ。第3期生の応募者は70人近くに達し、周りは年下ながらレーシングカートで成績を残してきたつわものばかり。

面接直訴のエピソードを思い起こす樽井良治さん=東京都内で(鶴田真也撮影)

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 かたや琢磨は自転車上がりでカート歴はわずか3カ月しかなかった。受講資格は23歳までだったが、合格できるのは20歳までと事前に通達されていた。翌98年1月には21歳の誕生日を迎える。最初で最後のチャンスと考えて当然だ。

 琢磨も「最後の質疑応答でどうやって受講生を絞るのかを聞いたら履歴書で書類審査すると言われて。僕だけ20歳。カート歴もSLカートをやって間もないので、わずか1、2行。確実に落ちると思った。それで1分でもいいから話を聞いてほしいと嘆願した」。急きょ面接が決まり、面倒なことをされた他の応募者から冷ややかな目を向けられたという。

 「面接ではありったけの熱意を伝えた、車が大好きでレースをやりたくてやりたくて仕方なかったが、これまでできなかった。大学も自転車も全て辞めて、このSRSに懸けたい−と」

 その時の面接官で採用担当だったのが後にサーキット支配人を務めた樽井良治さん(65)。その時の記憶を鮮明に覚えている。琢磨は当落ラインギリギリの9番目の候補だったという。

 「琢磨さんを落とそうと思ったこともある。カートの経験が少なかったからね。間違いなく9人目の男だった」と言う。

F1デビュー戦となった2002年のオーストラリアGP。ジョーダンのマシンをドライブ=アルバートパーク・サーキットで(岡本宏撮影)

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 しかし、面接での圧倒的な熱量に魅了され、最終的には補欠同然の9人目として合格にすることに。「話に芯がある。彼が妙にキラキラと輝いて見えた。決めたのは自分の第六感だった。スクールカーは予備を含めて全10台。9人でも大丈夫だろうと判断した」

 受講初日からその走りは際立っていた。最初のプログラムは市販のホンダ・シビックによる運転技術とコースの習得。他の受講生は普通免許のない18歳未満の子ばかり。クラッチペダルやシフトレバーを使った操作をしたことがなかったが、琢磨は18歳で免許を取得。一日の長があった。

 当時の受講生で後にスーパーフォーミュラ、スーパーGTでタイトルを獲得した松田次生は「琢磨さんはいきなり速かった。僕はレーシングカートには乗っていたけど、(ペダル操作の基本技術)ヒールアンドトゥーができなかったので。確か最後は講師よりも速かったのでは」と振り返った。

インディ500に優勝し、恒例のミルクを飲み干す=2017年5月(ホンダ提供)

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 琢磨は松田、後にドイツF3を制する金石年弘とともにスカラシップに選ばれ、全日本F3を皮切りに目覚ましい活躍を続けた。2001年には英国F3王者に輝き、F3世界一決定戦のマカオGPで優勝。02年に日本人7人目のフル参戦ドライバーとしてF1デビューを果たした。

 その後は、BARホンダに在籍していた2004年のアメリカGPで自己ベストの3位表彰台を獲得。10年にインディカーに転向し、17年にアジア人初のインディ500制覇を成し遂げた。42歳になった今年もインディカーで現役を続ける。

 今年から自身が巣立ったSRSのフォーミュラ/カート部門で校長職のプリンシパルに就任。後進の指導にもあたる。「海外で日本人が勝たないことには。海外のF3でも僕や年弘らの後にチャンピオンが出ていない。ジュニアカテゴリーなら、まだ選手の腕が生きる。2輪で日本人が世界王者になったんだから。4輪だってタイヤが2本増えただけ。やれる」

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 SRS−Fの出身で琢磨の後にF1シートを射止めたのは山本左近だけ。有望株を発掘し、琢磨門下初のF1ドライバーを誕生させる。

 琢磨は今季で米インディカー参戦10年目を迎える。レイホール・レターマン・ラニガンに残留し、同チームから3年連続でインディ500に挑戦、2年ぶりの優勝を目指す。3月に入っても多忙なスケジュールを縫って三重・鈴鹿サーキットで開催されたイベント「モースポフェス2019」に駆けつけ、インディ500優勝車両によるデモ走行を披露。最終日の3日は雨天のなか走行し、「S字コーナーではずっと滑っていた」とはにかんだ。

 もう18年も前になるのか。F1の舞台で初めて君が代を聞いた。それが琢磨の優勝だった。2001年7月、イギリスGPの前座で開催された英国F3の特別戦を制した。グランプリイベントは注目度も抜群。それがスターダムにのし上がるきっかけになったと思う。

 幸いなことにその年は8月の国際F3「マールボロマスターズ」(オランダ)、11月の「F3マカオGP」も現地に取材に行くことができ、いずれも優勝を果たし、その年は3度も君が代にありつくことができた。マカオの優勝後にまとったサイン入りの日章旗は今も宝物だ。

 今年で琢磨は42歳。今もインディカーで現役を続けているのは素晴らしい限りだ。もう1度、彼の優勝で“生”の君が代を聞いてみたい。できれば日本戦で…。復活開催してくれないものか。 (鶴田真也)

 ▼佐藤琢磨(さとう・たくま) 1977(昭和52)年1月28日生まれ、42歳。東京都出身。98年に全日本F3で4輪デビュー。F1には2002〜08年に参戦。04年のスペインGPで日本人最高の予選3番手を記録。同年アメリカGPで日本人2人目の3位表彰台を獲得した。10年から参戦するインディカーでは、17年のインディ500を含めて通算3勝。

 

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