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【スポーツ史 平成物語】

天才ノリックの伝説 故阿部典史の息子・真生騎が継承

2019年3月13日 紙面から

表彰台でも満面の笑み(ゲッティ・共同) 

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第10部 モータースポーツ編(3)

 ロードレース世界選手権の最高峰クラスで鮮烈な走りを見せ続けたのがノリックの愛称で親しまれた故阿部典史だ。1996年の第3戦日本GP(三重県・鈴鹿サーキット)で初優勝を果たし、日本人が大活躍した黄金期の中心を担った。しかし、全日本選手権に復帰した2007年に交通事故に見舞われ32歳で他界。天才ライダーの足跡を追う。 (鶴田真也)

 ヘルメットから伸びる長髪をたなびかせながら最終コーナーを立ち上がった。ノリックがトップでチェッカーフラッグをくぐり抜け、最高峰クラスの年少記録では歴代3位タイ(当時は2位)となる20歳227日で初優勝を果たした。

 「レース中も自分はトップを走っているなんて、本当に信じられなかった。今回は本当に短く感じた。汗もかかなかったし、あっという間だった」。本紙で連載していた独占手記「ノリック No Limit」(96年4月24日付)では当時の様子を克明につづっている。日本出身選手が最高峰クラスで優勝するのは82年スウェーデンGPの片山敬済(たかずみ)以来、14年ぶりの快挙だった。

1996年に初優勝し、日の丸を掲げてウイニングラン(ゲッティ・共同)

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 本紙でWGPを担当する遠藤智さんは公私で深い付き合いを続けた。当時も現場で優勝を見届けた。「ノリックは星が好きで、ヘルメット、ライディングスーツから星のマークを入れていた。だけど、グローブだけは星がなかったので、あのグランプリではマジックで書いた。それで勝っちゃった。ホントに天真らんまんなライダーだった」と懐かしむ。

 ただし、その年のノリックは開幕戦、第2戦と苦しんだ。そこで鈴鹿に入る前に静岡・富士スピードウェイに足を運んだ。施設内のモトクロス場に特別にバンクを設営し、秘密裏にオフロード用のバイクで攻めの走りを猛特訓した。15歳で渡米し、ダートトラックやモトクロスで腕を磨いた経歴を持つ。原点に立ち返ることで本番でのダイナミックな走りにつなげた。

 WGPデビューは94年。日本GPの500ccにワイルドカード(地元推薦枠)で参戦したが、まだ18歳だった。第一線で活躍するバレンティーノ・ロッシ(イタリア)が最高峰クラスに初出場したのは21歳。現王者のマルク・マルケス(スペイン)も20歳だった。いかに規格外のライダーだったかが分かる。

 スポーツの世界では「ルーティン」という言葉が使われることが多い。集中力を高めるために、決められた一連の動作を続ける習慣や行動のことだ。ノリックはそれが際立っていた。

 グランプリウィークは就寝時間も午後10時と決めていた。あるグランプリで他のライダーや関係者とレストランで夕食を取っていると外はどしゃぶりの雨。それでも雨宿りすることなく、“定刻”前には大雨のなか宿舎に戻ったという。

 バイクにまたがる前もゆっくりと柔軟体操をするのがルーティン。走行テストの時に雨雲が接近していたことから、チームから「急いで1周走ってきてくれ」と要請された。が、ノリックはいつも通りの柔軟体操を始め、いざコースインとなったところで大雨襲来となったこともあった。

 ただし、レースが終わるとスイッチオフ。チームスタッフと次の日の朝まで飲み明かすこともあったという。

 その後、99年、2000年と勝利し、WGPでは通算3勝。05年からはスーパーバイク世界選手権にスイッチし、07年には13年ぶりに全日本選手権に復帰。爪を研ぎながら再び世界に出る道を探っていたが、それはかなわなかった。

 同年10月7日、川崎市内の市道で大型スクーターを運転中に、急に反対車線から旋回してきたトラックと衝突。32歳の若さで天に召された。現場はUターン禁止区域だった。同13日に東京・青山葬儀所で告別式が執り行われ、ファンら3200人が参列した。墓は横浜市都筑区の龍雲寺にあり、笑顔のレリーフとともに静かに眠っている。

記者の質問に答える故阿部典史さんの長男の真生騎(左)と父親の光雄さん=桶川スポーツランドで(武藤健一撮影)

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 ノリックのDNAは次世代に受け継がれている。ノリックは長男を残していたのだ。その名は真生騎(まいき、15)。ノリック本人が「世界的に通用する名前にしたい」とマイケルの響きに近い名前をつけた。

 真生騎は目元や雰囲気はノリックそっくりだが、死亡事故の当時は3歳。「お父さんの記憶は一緒に潮干狩りに行ったことくらい。レースの映像も初めて見たのは昨年。自分がレースをやるようになってから見るようになった」と話した。

 2輪レースを本格的に始めたのは14歳になってから。昨年6月に筑波サーキット(茨城)の地方選手権でレースデビューした。今季は同選手権に継続参戦するほか、全日本ロードレース選手権に併催されるMFJカップ(JP250)にもチャレンジする予定だ。

 父親譲りはオフロードへの適応能力。トレーニングのためダートでバイクを走らせたところ、怖がることなく圧倒的なスピードを披露したという。ノリックの父で元オートレース選手の光雄さんが英才教育で指導しており、「モトクロス出身のコーチもびっくりしていた。真生騎はトレーニング中の事故で2度も骨折している。ノリは5回くらいやったかな? そういう点でも親子でよく似ている」と目を細めた。

 ベテランのロッシはノリックの信奉者。今季のモトGP用マシンには「ろっしふみ」のステッカーが貼られている。平成時代に日本人が刻んだWGP勝利は全3クラスを通じて「145」を数える。そんな黄金期をノリックがけん引した。

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 ロードレース世界選手権の世界では日本人選手は冬の時代だ。最高峰クラスでの最後の日本人ウイナーは2004年の日本GPでモトGPクラスを制した玉田誠(当時ホンダ)。昨季からLCRホンダで中上貴晶(27)が参戦しているが、14年の青山博一(ひろし)以来のシーズンフル参戦だった。最高峰クラスで優勝した日本人は6人(のべ12回)。最多は500cc4勝の岡田忠之(当時ホンダ)だ。全グランプリを取材する遠藤智さんも「ノリックは天才だった」と早すぎる死を改めて惜しんだ。

 ノリックと並び評される天才ライダーが故加藤大治郎選手。現場では「大ちゃん」の愛称で呼ばれ、2001年に250cc(現モト2)クラスの世界王者を獲得。02年にモトGPクラスに昇格したが、03年開幕戦・日本GP(鈴鹿)でクラッシュに見舞われ、26歳で命を落とした。

 記者も現場で取材をしていた。130Rの立ち上がりでバランスを崩し、シケインのスポンジバリアーに突っ込んだ。事故の原因については他車との接触説、整備不良説もささやかれたが、第三者機関の事故調査委員会が、2輪特有の振動現象でもある「ウィーブモード」が発生してコントロールを失ったと結論づけた。

 平成の時代では93年のスペインGPで250ccの若井伸之、10年サンマリノGPでモト2の富沢祥也、スーパーバイク世界選手権の95年オランダ大会では永井康友がいずれも大会中の事故でこの世を去った。合掌。

 ▼阿部典史(あべ・のりふみ) 1975(昭和50)年9月7日生まれ、東京都出身。15歳で渡米し、ダートトラック、モトクロスなどで武者修行。93年に全日本ロードレース選手権の500ccクラスでタイトル獲得。94年に同クラスでWGPデビュー。モトGPとなった2004年まで通算144戦に出場して通算3勝。WSBを経て07年に全日本に復帰し、同年7月の鈴鹿8時間耐久レースに初出場。10月に交通事故で32歳で死去。

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