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【スポーツ史 平成物語】

バブル最後の大輪 鈴木亜久里、日本GP3位

2019年3月9日 紙面から

1990年の日本GPで3位表彰台に立ってトロフィーを掲げる亜久里(右)。優勝のピケ(中)、2位のモレノ(左)の笑顔が懐かしい(ゲッティ・共同)

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第10部 モータースポーツ編(2)

 平成2(1990)年のF1日本GP(三重・鈴鹿サーキット)は、今では考えられないほど輝きを放っていた。ラルースで参戦していた鈴木亜久里=当時(30)=が日本人初表彰台となる3位を獲得。バブル景気の頂点を象徴する快挙を成し遂げた。と同時に、それが後に起きるバブル崩壊の萌芽(ほうが)でもあった。その意味で、まさに歴史の転換点のレースだった。 (明村馨)

 当時はF1人気真っ盛り。アイルトン・セナと中嶋悟の名は一般的にも知られ、地上げなどでもうけた“バブル紳士”が次々にF1に進出していた。鈴木亜久里の所属するラルースもこの年、不動産業などのエスポコミュニケーションズを率いる伊東和夫に買収されていた。

 中嶋に次ぐ日本人2人目のF1レギュラードライバーになった亜久里は、初のフルエントリーとなった1989年に、ザクスピード・ヤマハで全16戦予備予選落ちの屈辱を味わった。

 当時は最多で39台ものエントリーがある盛況で、予選(最大30台)に出る4台を決めるための予備予選が行われていた。欧州の場合はまだ薄暗い金曜の午前8時から走り始め、朝日が昇るころには亜久里のグランプリは終わっていた。それだけに、ようやくまともな体制が整って実力をアピールできることがうれしかった。

日本GPではランボルギーニ製エンジンを積むラルースのマシンで激走(ゲッティ・共同)

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 90年は開幕からリタイア続きだったが、第8戦イギリスGPで初入賞となる6位(当時は6位までが入賞)に入り、日本の前の第14戦スペインGPでも6位に入って波に乗っていた。「ランボルギーニのエンジニアが毎回『15馬力アップさせた』って言うんだよね。クルマはほんとに乗りやすかった。実際、鈴鹿ではウィリアムズより速かった」と亜久里は28年前を懐かしそうに振り返った。

 現在の安全なF1とは違って、当時は死と隣り合わせの危険な香りに満ちていた。鈴鹿の日本GPへの伏線としても、前戦スペインGPのへレスでロータスに乗るマーチン・ドネリー(英国)による大クラッシュがある。

 また、日本GP開幕の1週間前の10月12日には、ベネトンのアレッサンドロ・ナニーニが地元イタリア・シエナで、乗っていたヘリコプターが墜落して右腕を切断する衝撃的な事故もあった。ベネトンは急きょ、チーム消滅でシートを失ったロベルト・モレノ(ブラジル)を代役に据えた。

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 そんなきな臭いムードのなか、10月21日の決勝を迎えた。そして、14万の大観衆が見守るなかスタートが切られ、わずか10秒足らずで歴史に残る悲劇が起きた。

 タイトルを争うマクラーレンのアイルトン・セナ(ブラジル)とフェラーリのアラン・プロスト(フランス)が互いに譲らず、1コーナーでクラッシュ。2台のマシンが土煙を上げながらグラベルで止まった。

 前年のシケインでの衝突に続く2年連続のアクシデントにどよめくスタンド。報道陣はレースそっちのけで、引き揚げてきたセナとプロストの非難の応酬を聞くはめになった。2度目のタイトルを獲得したセナに笑顔はなかった。

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 報道陣がようやく2人から解放され、記者席に戻ってコースに目を転じると、“突然死”したはずのレースは輝くばかりによみがえっていた。われらが亜久里が3番手を走っていたのだ。首位はネルソン・ピケ(ブラジル)で、2番手はナニーニの代役モレノのベネトンの2台。これから大きく離れて、亜久里が確かに単独で鈴鹿をひた走った。そしてホンダに乗る中嶋でも手が届かなかった表彰台を、実質ルーキーの亜久里が手にしてしまった。

 実はグランプリが始まってから、ラルースの母体であるエスポが不渡りを出したという情報が伝わっていた。亜久里自身は全く知らなかったというが、これがエスポの終わりの始まり。

 「皮肉なもんだねえ。そのレースでオレが表彰台に立っちゃったんだから。伊東さんをはじめ、バブルで日本人がF1にいっぱいいたけど、全部いなくなって会社も全部つぶれちゃった。でもバブルがなかったら、オレはF1に乗れなかったかもしれないな」

 表彰台に立つ亜久里の笑顔が、バブルというあだ花の最後の大輪だった。その泡は露と消え、時代は平成デフレの長いトンネルへ−。きらめいていた1990年の記憶もはるか遠くの光の明滅と化した。

南青山の事務所には3位表彰台に立った時かぶっていたヘルメットがそのままあった(明村馨撮影)

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 日本人のF1表彰台はたったの3回しかない。90年の亜久里の後には、2004年に佐藤琢磨(当時BARホンダ)がアメリカGPで3位を獲得。12年に小林可夢偉(当時ザウバー)が日本GPで3位をマークした。日本人のF1優勝はまだ果たせていない。F1最多勝は英国人の277勝。次いでドイツ人の178勝、ブラジル人の101勝、フランス人の79勝の順。

 亜久里が代表取締役を務める「アルネックス」の東京・南青山の事務所を訪ねた。取材のつもりだったが、とりとめもない昔話をしてきただけだったような・・・。

 鈴鹿で3位表彰台に立って時代のちょうじになったものの、亜久里のその後のF1キャリアは、1995年の日本GPの大クラッシュで幕を閉じるまでいばらの道だった。チームオーナーに転じ、米インディカー、国内レースに参戦し、ついにはスーパーアグリF1チームとしてF1にも参戦。しかし資金繰りに失敗して巨額の借金を負ったとも聞いた。

2006年には「スーパーアグリF1」を立ち上げ、チームオーナーとしてF1に再進出。右隣は同年の序盤にレギュラーを務めた井出有治(川柳晶寛撮影)

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 そんな苦労の連続だったが、レース人生を振り返ってもらうと、「神様は何でこんなにやりたいことやらしてくれるんだろうと思う」と感謝の言葉を口にした。そうなのだ、これが亜久里という男だ。底抜けの明るさが運命を切り開く。

 「オレももう58歳。孫がいるおじいちゃんだよ」という笑顔は昔のままだった。 (明村馨)

 ▼鈴木亜久里(すずき・あぐり) 1960(昭和35)年9月8日生まれ、58歳。東京都出身。88年の日本GPにラルースからスポット参戦してF1デビュー。89年はザクスピード・ヤマハで全戦予備予選落ち。90年はラルースでフル参戦して日本GPで日本人初表彰台となる3位。95年までF1に参戦し、エントリーは通算88戦。その後は全日本GTや仏ルマン24時間レースなどに参戦。同時にオーナーチームを立ち上げ、国内レースのほか、インディカー、F1などにも進出した。

 

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