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【スポーツ史 平成物語】

セナの悲劇からF1は大きく変わった 平成6年サンマリノGP事故死

2019年3月8日 紙面から

1993年のモナコGPでF1新の同一GP5連勝を達成し歓喜のアイルトン・セナ

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第10部 モータースポーツ編(1)

 F1の一大ブームの立役者となったのが音速の貴公子と呼ばれたアイルトン・セナだ。マクラーレン・ホンダで3度のF1王者に輝いたが、1994(平成6)年5月1日に悲劇が。ウィリアムズの一員として出場したF1サンマリノGP(イタリア・イモラ)で単独事故を起こし、34歳の短い生涯を閉じた。本紙でスーパーバイサーを務めたF1ジャーナリストの今宮純さん(69)が当時を振り返る。 (鶴田真也)

 「2:17」。今宮さんの取材ノートには赤字ではっきりとその時刻が書き込まれていた。25年前の伊イモラ。セナはタンブレロコーナーを直進し、そのままコース外のコンクリートウオールに激突した。一大ブームに沸いていたF1が転換点を迎えた瞬間でもあった。

 「大変な事件が起きたと直感した。何かが足元からガタガタと崩れ落ちるような感じというか。クラッシュの直後にセナの頭が少し動いたので、大丈夫と思った人も多かったようだが、僕は逆にそれを見て『終わった。ダメだ』と感じた」

事故当日の今宮さんの取材ノート

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 現地との時差は7時間。日本では午後9時17分ということになる。事故が起きたのは7周目。1周目に他選手が事故を起こし、直後にセーフティーカーが導入。5周したところで再スタートが切られ、その次の周回で悲劇が起きた。

 初日の予選1回目でジョーダンのルーベンス・バリチェロ(ブラジル)が大クラッシュに見舞われ、決勝前日の予選2回目にはシムテックのローランド・ラッツェンバーガー(オーストリア)がウオールにぶつかって事故死していた。グランプリ期間中の選手の事故死は1982年カナダGPのリカルド・パレッティ(イタリア)以来。現地は異様な雰囲気に包まれていた。

 「僕は決勝中に放送席をいったん外し、表の空気を吸いに出た。すると隣の隣のフランスのテレビ局でゲスト解説していたアラン・プロストがいて・・・。見ると柵に寄り掛かって泣いていた」。プロストは前年王者でセナとは常にライバル関係にあった。タンブレロは時速310キロ近くで駆け抜ける高速コーナー。あのクラッシュでは助からないと察知していたようだ。

クラッシュの瞬間のレース映像(ゲッティ・共同)

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 当時はフジテレビ系の地上波でF1全戦が中継されていた。欧州ラウンドは厳密な生中継でなく、その日の深夜に録画で放送する形式。事故後は中継の前に組まれていたスポーツ番組で容体や事故の詳細が伝えられた。

 ただし、その時はまだ死亡は発表されていなかった。レースもいったんは赤旗中断となったものの、打ち切られることなく、そのまま再開された。F1中継は日本時間深夜0時15分にスタート。すぐに現地からの緊急生中継に切り替わり、ピットウオールから三宅正治アナ、ピットリポーターの川井一仁さんとともにリポートした。その後はレースの録画中継に生中継を挟みながら番組が続けられた。

 搬送先の病院から「脳の機能が停止した」と公式発表されたのは深夜1時を過ぎてから。中継中にニュース速報で「死亡」のテロップが流れ、再びピットウオールの映像に切り替わった。そこで改めてコメントを求められたが、冷静になれるはずがない。「モータースポーツで働いている者の1人として受け止めなければならない。再来週のモナコGPにセナはいませんが、F1は続いていくわけです」。虚空を見つめながら大粒の涙を流した。

セナと対談する今宮純さん(左)=1992年

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 セナとはフジテレビの解説者となった1987年からの付き合いだった。その年のモナコGPでは本人からしかられたこともある。休息日に設定されている金曜日のこと。立ち話する機会があり、コース図を示して、各コーナーのギアのポジションを教えてもらおうとしたところ−。

 「うーん、木曜日に走ってみて、今、土曜日以降をどうしようか考えているんだ」。解説用にオーソドックスなシフトチェンジの仕方を聞くつもりだったが、こんな受け答えで渋られたという。

 そのグランプリでセナは見事に優勝。その夜に現地で開かれたガラパーティーで再会するなり、笑顔で「おまえは約束を守らなかった」と冗談交じりで詰め寄られた。実は金曜日に話をした際に「レース前にもう一度、来てくれ」と言われていたが、失念してしまったという。今宮さんは「普通の選手だったら適当に答えていたかもしれない。それだけ1つの質問にも真剣に考えている。何事にも徹底的にこだわるのがセナ。その一端を見た」と振り返った。

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 平成に元号が変わった89年からフリーアナの古舘伊知郎が実況陣に加わり、今もセナを表す「音速の貴公子」など独特の言い回しのニックネームが次々と誕生。お茶の間をにぎわせた。昭和シェル石油会社のCMでも「セナ様」のフレーズが話題に。「テレビで中継するテレビジョンスポーツが盛んになった時期。F1も、それまで見ていたのは車好きの男性が中心。それが女性や子どもにも広まっていった。F1が時代にうまくシンクロした」と分析する。

 セナの死でF1はがらりと変わった。選手の安全性が重視され、車体も衝撃安全性能が著しく向上。頭頸部(とうけいぶ)を保護するHANSデバイスなども採用された。その結果、2014年の日本GPでジュール・ビアンキ(フランス)が事故死するまで20年にわたって選手の死亡事故は起きなかった。

 「安全面の意識が飛躍的に高まったのはセナの遺産。もし、あの時に今のような安全装備があれば、セナは来年で60歳。還暦を迎えられていたと思う。事故が起きていなければ、チャンピオンの数は増えていたと思うし、最後はフェラーリで引退していたかもね」と早すぎる死を惜しんだ。

 日本国内では事故死の反動は予想以上に大きかった。バブル崩壊の時期とも重なったことで隆盛を極めたF1ブームが一気に終焉(しゅうえん)へと向かうことになる。

 セナは日本のバラエティー番組にも呼ばれた。フジテレビ系の「笑っていいとも」にゲスト出演し、日本テレビ系の「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」では石橋貴明がセナとカート対決した。子どもにセナにちなんだ名前をつける親も増えた。昨季スーパーフォーミュラにスポット参戦した阪口晴南(せな)は1999年生まれ。「祖父の代から親子3代でセナの大ファン。セナのように誰からも愛されるドライバーになってほしい」との願いを込めて、名付けられたという。

アイルトン・セナの事故死を伝える本紙1面=1994年5月2日付

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 事故当時、記者は入社して1年目。新人研修の新聞配達で販売店のある三重県四日市市にいた。学生時代からF1レースは欠かさずチェックしており、F1担当になるのが夢だった。

 確か朝刊の配達に備えて寝る準備をしていたと思う。するとテレビでセナが大事故に見舞われたとのニュース速報が。F1の放送中にセナ事故死が伝えられ、ブラウン管に向かって涙した。あの日は一睡もできず、朝刊を配った。

 念願かなってF1担当になったのが2年後の1996年。当時はセナの足跡が色濃く残っており、その後、ブラジルGPの取材でセナが眠るモルンビー墓地を訪れ、イモラにも足を運ぶことができた。

 ただし、本人を取材できなかったことはちょっとしたコンプレックスだった。セナの思い出を誇らしげに語れる周りの人たちがうらやましくてならなかった。 (鶴田真也)

 ▼アイルトン・セナ 1960年3月21日生まれ、ブラジル出身。84年にF1デビューし、マクラーレン・ホンダ時代の88、90、91年にチャンピオンを獲得。通算41勝でポールポジションは65回。ウィリアムズに移籍した94年の第3戦サンマリノGPで34歳の若さで事故死。事故の原因はステアリングコラム(ハンドルの軸)の破損の疑いが強まり、チーム幹部が訴追される刑事事件に発展した。セナは未婚で実子はいなかった。

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