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【スポーツ史 平成物語】

武蔵川親方、郷に入りて国技に溶け込んだ 国際化が顕著になった30年

2019年2月16日 紙面から

日本国籍取得が認められ、名前を書いた色紙を手に会見する大関武蔵丸=1996年1月、東京・東日暮里の武蔵川部屋で

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第9部 大相撲編(4)

 平成の大相撲は国際化が顕著になった。南米、欧州、アフリカ出身の関取が初めて誕生し、21世紀になるとモンゴル勢が土俵を席巻。2006(平成18)年春場所からは日本出身力士が10年間も優勝から遠ざかり、「日本人横綱待望論」の声が上がるまでになった。かつての「外国人力士」で、現役中に日本国籍を取得した元横綱武蔵丸の武蔵川親方(47)は、いかにして「国技」に溶け込んだのだろうか。

 出身はハワイ。にもかかわらず、武蔵川親方には自身が外国人だという意識がない。

 「稀勢の里の前の日本人横綱は誰か知ってる? 若乃花や貴乃花じゃなくて俺なんだよ。みんな、そこを間違っている。俺は日本人。外国人と思ってないもん」

 貴乃花と若乃花に続いて武蔵川親方が横綱へ昇進した後、番付最高位に上り詰めたのはモンゴル出身の4人と稀勢の里だけ。大関だった1996(平成8)年1月に日本国籍の取得が認められた武蔵川親方は、日本への愛着と日本人としての誇りを20年以上も持ち続けている。

 2001(平成13)年名古屋場所から7場所連続で横綱貴乃花が全休した時、武蔵川親方は実質的な一人横綱として角界を支えた。その間に3度の優勝。7場所のうち5場所は10日目まで全勝か1敗で優勝争いを引っ張った。

 愚痴ひとつこぼさずに重責を果たした武蔵川親方は「勝たなきゃいけないという気持ちはあった。でも、(一人横綱は)あまり気にしなかった。人間だから、どこかが悪くなることもある。土俵の上で相撲を頑張るしかないんだよ」と当時を振り返る。

ハワイ出身の力士で故郷にみこしを贈る(左から)小錦・武蔵丸・曙・東関親方=1994年4月

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 01年九州場所は11日目に単独トップに立つと、優勝の可能性があった関脇栃東や小結朝青龍を下して逃げ切り。02年春場所は7日目から単独トップを譲らず、10度目の優勝を飾った。続く夏場所は初日から12連勝した時点で後続に3差をつけ、悠々と賜杯を手にした。

 優勝回数は歴代8位タイの12度、通算幕内勝利数は歴代8位の706。「郷に入れば郷に従え」という言葉を実践したことが成功の要因だった。自らの体験を踏まえ「日本に来たら、日本の文化に合わせないとダメ。食事も合わせなきゃいけない。努力しないとうまくいかないよ」と力説する。

 「俺は日本人」と言い切る武蔵川親方にも、恩義を感じている郷土の先輩がいる。

 「やっぱり、道を開いてくれたのは高見山さん。彼がいなかったら外国人は誰もいない」

 実は、入門する前に元高見山の東関親方から大相撲入りを誘われたことがある。「スカウトに来て、『相撲、行かない?』って言われたけど断った。結局、その後に相撲を取るんだけどね。日本に来てしばらくたったころ、両国駅で東関親方に会ったら怒られたよ」

02年夏場所12日目、朝青龍(右)を寄り切りで下し12連勝を決めた武蔵丸=両国国技館で

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 ハワイ出身の力士は時として人気者になることもあったが、日本出身力士のライバルとして捉えられることが多かった。昭和から平成にかけて、巨体を生かして日本出身力士を圧倒した小錦や曙は「黒舟襲来」と恐れられた。その後の「若貴ブーム」では若貴兄弟の前に立ちはだかる敵役に位置付けられた。主役は日本出身力士。それでいて、場合によっては重責を担わされる損な役回りだった。

 武蔵川親方が現役最後となる12度目の優勝を遂げた02(平成14)年秋場所は、朝青龍がモンゴル出身初の大関になったばかり。続く九州場所で朝青龍が初優勝し、モンゴル時代の幕を開いた。1年後の03年九州場所で武蔵川親方は現役を引退。朝青龍は既に4度の優勝を数え、幕下では白鵬が翌場所の新十両昇進を決めた。

 「若貴ブーム」が落ち着いてからモンゴル時代が来るまでの数年間、大相撲界の屋台骨を背負うことが武蔵川親方の役割だった。

名古屋場所を前にした激励会で、あいさつをした河村たかし名古屋市長(左)と武蔵川親方=昨年6月、名古屋市中区の万松寺で(岸本隆撮影)

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 1989(平成元)年秋場所に初土俵を踏んだ武蔵川親方は「相撲が好き。生まれ変わっても相撲をやるよ」と相撲への愛着を隠さない。力士で14年、親方で15年以上。平成時代を、ほぼ角界で過ごした。「早かったねえ。現役も、親方も。次の時代は新しい人や若い人が上に立って、明るい相撲界であってほしい。(候補は)いっぱい、いるんだよ」

 すっかり日本人となった、元ハワイ出身力士から次世代へのメッセージだ。 (堤誠人)

 モンゴル出身力士の第1号は、1992(平成4)年春場所に初土俵を踏んだ旭鷲山、旭天鵬ら6人。珍手、妙手が持ち味だった旭鷲山は「技のデパートモンゴル支店」の異名を取った。これは、猫だましなど多彩な技を繰り出すことから「技のデパート」と呼ばれて人気だった舞の海と比較されたものだ。旭天鵬は2012(平成24)年夏場所に史上最年長の37歳8カ月で初優勝を飾るなど、40歳まで現役を続けた。

 99(平成11)年初場所には朝青龍がデビューした。モンゴル出身初の大関、横綱となり、05(平成17)年には史上初の年6場所完全制覇を達成するなど優勝回数は歴代4位の25度。さらに、01年春場所にデビューした白鵬は歴代最多の優勝41度を重ねるなど多くの記録を塗り替えた。

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 現在まで60人以上のモンゴル出身者が角界入り。約半数の33人が十両へ昇進し、関取となった。安定した強さの秘訣(ひけつ)を、元関脇旭天鵬の友綱親方は次のように説明する。「単純に気持ちの問題。モンゴルでも相撲は大きく取り上げられるし、ニュースでは『誰々の子どもが…』って親の名前が先に来る。親に恥をかかせられない、という思いになる。周りは成功していくから、比べられるということもある」

 一方、土俵外で世間を騒がせることも多かった。特に朝青龍は07(平成19)年8月、巡業を休場したにもかかわらずモンゴルで行われたイベントでサッカーに興じ、横綱として初の出場停止処分。10年1月には深夜に泥酔して一般人へ暴行し、責任を取る形で翌月に引退した。横綱日馬富士や貴ノ岩も不祥事で引退へ追い込まれている。

 ▼武蔵丸光洋(むさしまる・こうよう) 本名同じ、米国籍時代の本名はフィアマル・ペニタニ。第67代横綱。1971(昭和46)年5月2日生まれ、米ハワイ・オアフ島出身の47歳。現役引退時は192センチ、235キロ。ハワイでの高校時代はアメリカンフットボールなどに取り組んだ。89年秋場所初土俵。91年名古屋場所新十両、同年九州場所新入幕。巨体を生かして圧力をかける取り口が持ち味で、大関だった94年名古屋場所に初優勝。99年名古屋場所で新横綱に昇進した。2003年九州場所中に引退。幕内通算成績は706勝267敗115休。優勝12度は双葉山と並ぶ歴代8位。96年1月に日本国籍を取得した。

 平成時代には日本以外の12カ国から幕内力士が生まれている。このほか、1992(平成4)年にはアルゼンチン出身の星誕期と星安出寿が十両へ昇進。幕下以下では欧州のハンガリー、英国やアジアのフィリピン、インドネシアなどから来日した力士が角界入りした。昭和時代にはトンガや台湾などの出身力士がデビューしている。

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