トップ > 中日スポーツ > スポーツ史 平成物語 > 記事

ここから本文

【スポーツ史 平成物語】

低迷男子ツアーに舞い降りた救世主 高1アマチュア石川遼が初出場優勝

2019年1月25日 紙面から

日本男子ゴルフツアー史上最年少で優勝し、チャンピオンブレザーを着て笑顔を見せる石川遼=2007年5月20日、東児が丘マリンヒルズGCで

写真

第8部 ゴルフ編(5)

 男子プロゴルフツアーが空前のフィーバーとなった。2007(平成19)年5月のマンシングウェアオープンKSB杯(岡山・東児が丘マリンヒルズGC)で、高校1年のアマチュアだった石川遼(27)が日本ツアー初出場ながら優勝。大会運営や天候など多くの状況が後押しした快挙で、人気低迷に悩んでいた男子ゴルフ界が息を吹き返した。歴史に残る大会の舞台裏を振り返る。 

  (文中敬称略)

 ツアー初出場のあどけない顔をした少年が、最終日に並み居るプロを猛チャージで抜き去り、まさかの優勝。2007年5月20日。東京・杉並学院高に入学したばかりの石川遼が成し遂げた快挙は『遼くんフィーバー』を巻き起こし、社会現象にもなった。

 伝説の始まりとなったマンシングウェアオープンKSB杯の競技運営ディレクターだった日本ゴルフツアー機構(JGTO)の小山和顕は「本当にいろいろなことが積み重なっての優勝だった」と奇跡の1週間を振り返る。

 石川はジュニアの世界では名が知られ始めていたが、プロツアーは初挑戦だった。予選会は2打及ばず落選。ただ、32人のアマチュアでトップだったことが主催者の目にとまり、特別に推薦出場が決まった。これが奇跡の始まりだ。

 初日は瞬間最大24.8メートルもの強風で中断。グリーン上で球が動くなど、とてもプレーできる状態ではなくノーゲームとなった。風が原因でツアーが中止になったのは史上2度目の珍事だった。

写真

 18日(金)、19日(土)の2日間で予選2ラウンド(R)を消化。ただ、第2Rに雨で競技が中断した際、優勝候補だった伊沢利光、片山晋呉、谷原秀人が再開の合図前にプレーを始めていたとテレビ視聴者から指摘され、翌日に失格となるハプニングがあった。

 石川は第1Rがパープレーで首位と8打差の70位と出遅れたが、第2Rは69で回り、通算3アンダー。首位と7打差の23位で予選を通過した。

 残りは1日。予選通過した64選手が全員36ホールを回れば、主催する瀬戸内海放送(KSB)の放送時間内に優勝が決まらない。こういう場合、18ホールだけにして3日間大会にしてしまうことも多い。だが、小山は別の決断を下した。前年決まったばかりの新規定「第11条(2)の(3)および(5)」を適用。これは、4日間大会として成立させるため、決勝Rでプレーする人数を制限するというものだ。これにより、通算2アンダー、33位までの41選手が最終日に36ホールを回ることになった。

 首位と5打差の10位と久々に優勝を争う位置につけていた60歳の尾崎将司は、座骨神経痛に悩まされていたこともあり「18ホールなら狙うが、1日に36ホールならオレは無理」とボヤいていた。逆に、若さあふれる15歳には追い風となった。

 300ヤード近いビッグドライブに強気なパットという超攻撃的なゴルフで、2R合計の36ホールで12バーディー、3ボギーと猛チャージをかけた。最終Rの17番パー3では、ピンまで25ヤードのバンカーショットがそのまま入ってチップインバーディー。バンザイでくるりと一周してギャラリーの声援に応えた、はにかんだような笑顔は日本中のファンの目に焼きついていることだろう。

写真

 2位に1打差をつけた単独首位でホールアウト。スコアボードの最上部に15歳の名前があったことは、優勝を争っていた他のプロにとって重圧となった。後続はスコアが伸びず、ホールアウトから1時間10分後、快挙が確定した。

 主催者の目にとまらなかったら? 初日が中止ではなかったら? 実力者がプレーしていたら? 新規定を適用せず最終日が18ホールだったら?…。ちなみに、この規定は現在までこの1度しか適用されていない。

 昭和時代は青木功、尾崎将司、中嶋常幸の「AON」らがゴルフブームをけん引したが、その後はスター不在に悩まされた。1982(昭和57)年に46試合だった男子ツアーは年々試合数が減り、07年には史上最少の24試合。この現状に、中嶋は「スターというのは『なる』ものじゃなく『出てくる』ものなんだ。今いる誰かがブレークするんじゃない。新しい人が現れるのを待つしかない」と話していた。数々の偶然が重なったことは、石川というスターを生み出すための必然だったのかもしれない。

 15歳8カ月でのツアー優勝は、世界最年少のギネス記録と認定された。奇跡の一端を担った小山は「正直、高校生の優勝には『どうしよう』という複雑な思いはあったけど、その後のゴルフ界を考えると、あの判断をしてよかったと思う。彼の実力なら、いずれは出てきたと思うが、ああいう初優勝でなかったら、あんなフィーバーにはならなかったでしょう」と感慨深げだ。

 男子ゴルフを取り巻く環境は劇的に変わった。遼くん効果で08(平成20)年は新しい大会ができ、年間の賞金総額は約6億円も増額。ワイドショーやゴルフに興味のない女性ファンが追っかけ、06年に1万5130人だった平均ギャラリー数は、プロ転向した石川が最年少で賞金王に輝いた09年には2万4535人となった。一時は5%台まで落ち込んでいた中継番組の視聴率もV字回復した。まさに、待望のスター降臨だった。  (竹村和佳子)

6番でチップインバーディーを決め、ギャラリーに祝福される石川遼=2010年5月2日、名古屋GC和合Cで(伊藤遼撮影)

写真

 2010(平成22)年5月2日の中日クラウンズ最終日で、石川は驚異的な「58」のスコアをたたき出した。

 首位と6打差の18位から出て、1番で3メートルのバーディーパットを沈める好スタート。4番パー3でティーショットを1メートルにつけ、6番では残り15ヤードをチップインバーディーと前半で7バーディーを奪った。後半も11番パー4で第2打を20センチにつけるなど5バーディー。パー70の名古屋GC和合Cで12バーディー、ノーボギー。終わってみれば、2位に5打差をつける大逆転勝利だった。

 「ちょっと今でも信じられない。和合でベストのプレーができて、一人のゴルファーとして幸せ。初優勝したマンシングウェアKSB杯の時のような不思議な感覚があった」

 初優勝した時の最年少ツアー優勝記録に続き、ギネスブックに最少スコアとして認定された。

石川遼メモ 

 【「ハニカミ王子」】 2007年マンシングウェアオープンKSB杯をテレビで実況中継していたKSBの多賀公人アナウンサーが、放送の最後に「奇跡を起こした東児が丘の王子は、笑顔がすてきなハニカミ王子でした」と締めくくった。前年、高校野球の夏の甲子園大会で優勝した東京・早実高の斎藤佑樹投手(現日本ハム)が「ハンカチ王子」の愛称でフィーバーをおこしていたこともあり、響きが似ていた「ハニカミ王子」も定着した。

 【赤パンツ&サンバイザー】 初優勝時に着用していた白いポロシャツ、赤いパンツ、赤いサンバイザーは石川のトレードマークとなり、多くのアマ選手がまねをした。実はマンシングウェアオープンKSB杯の時、初めてプロツアーに出場する石川はトーナメント規定を知らず、短パンで練習ラウンド。他のプロから指摘され、途中で本番に着用予定だった長いパンツにはき替えた。このことや予選Rの荒天の影響からか、最終日にはくパンツがなくなり、予選を通過した土曜日の午後、岡山市内のデパートで新しいパンツを購入。この大会の優勝ジャケットが赤いことに合わせて赤パンツだった。

 【ギャラリーのマナー違反を憂慮】 ゴルフ観戦の経験がないギャラリーが激増し、プレー中に携帯電話で写真を撮影する行為やハイヒールでコス内を歩くなどマナー違反が続出。石川のプレーが終わると、同伴競技者がショットを打つ時にギャラリーが次のホールへ動きだしてしまうことを憂慮し、自身でギャラリーに注意することも多かった。ゴルフ取材のルールを知らないワイドショー番組が同伴競技者にピンマイクを付けようとしたり、コース上空にヘリを飛ばしたりすることなども問題となった。

カシオ・ワールドOP最終日、表彰式後、石川遼(右)と握手をする松山英樹。中央はベストアマの小西健太=2013年12月1日、高知・Kochi黒潮CCで(武藤健一撮影)

写真

松山英樹 同世代に巨星2つ

 平成の終盤に、世界で通用する選手が現れた。2014(平成26)年以降、米ツアーで日本選手歴代最多の5勝を挙げている松山英樹(26)だ。

 東北福祉大2年だった11(平成23)年の三井住友VISA太平洋マスターズで、アマチュアでは史上3人目のツアー優勝。13年4月にプロへ転向すると同年に4勝を挙げ、いきなり日本ツアーの賞金王となった。ルーキーイヤーの賞金王は史上初だ。

 翌年から本格的に米ツアーへ参戦し、6月1日が最終日だったザ・メモリアルトーナメントで米ツアー初勝利。16、17年はフェニックスオープンを連覇した。16年のHSBCチャンピオンズなど、海外メジャーに次ぐ格の世界選手権シリーズ(WGC)でも2勝。世界ランキングは最高で2位まで上がった。

 海外メジャーでも上位に食い込んだ。15(平成27)年のマスターズで5位、17年の全米オープンでは4打差の2位など、25試合に出場して10位以内が7度。16年のマスターズでは首位と2打差の3位で最終日を迎え、17年の全米プロ選手権では最終日の10番を終えた時点で首位に立つなど、海外メジャー制覇に迫ったこともある。

 石川と同じ1991(平成3)年度生まれ。高知・明徳義塾高時代には、東京・杉並学院高の石川とジュニアの大会でしのぎを削った。日本ツアーでの実績は石川に後れを取ったが、米ツアーでは石川を上回る成績を残した。

 

この記事を印刷する

PR情報

閉じる
中日スポーツ 東京中日スポーツ 中日スポーツ 東京中日スポーツ 中日スポーツ購読案内 東京中日スポーツ購読案内 中日スポーツ購読案内 東京中日スポーツ購読案内 中日新聞フォトサービス 東京中日スポーツ