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【スポーツ史 平成物語】

炊飯器が呼んだ「メキシコの奇跡」 丸山&伊沢45年ぶりW杯優勝

2019年1月19日 紙面から

男子ゴルフの世界選手権シリーズ最終戦、国別対抗のEMCワールドカップで優勝し、トロフィーを手にして喜ぶ丸山茂樹(左)と伊沢利光=2002年12月(AP・共同)

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第8部 ゴルフ編(2)

 日本のゴルフが世界の頂点に立った。2002(平成14)年12月、国・地域別対抗戦のW杯メキシコ大会で丸山茂樹(49)、伊沢利光(50)組が優勝。日本勢としては1957(昭和32)年の中村寅吉、小野光一組以来、45年ぶりの快挙を成し遂げた。その後に今田竜二(42)や松山英樹(26)ら米ツアーの優勝者は誕生したものの、W杯を制した日本人ペアは現れていない。丸山と伊沢が世界の強豪を破った17年前の歓喜を振り返る。 (文中敬称略)

 2002年12月15日、ビスタ・バジャルタGCを舞台としたW杯の最終日は、2選手が交互に打つフォーサムで行われた。最終18番パー4。首位の日本は、グリーンエッジから10メートル余りの第3打を丸山が80センチに寄せた。

 「アミーゴ」。陽気なメキシコ人が一段と大きな歓声を上げた。2位の米国とは2打差。「俺たち、優勝しちゃったよ」。パットを打つ伊沢は勝利を確信すると、夢うつつにフワフワとグリーン上を歩いた。「パットが残っていたのに、あの時間はすごく幸せで、とても長く感じられた」

 丸山と伊沢にとって、雪辱を期した大会だった。日本で開催された01(平成13)年のW杯で、2人は11位と惨敗した。「来年、リベンジしよう」。その場で約束したが、1年たつと海外遠征を好まない伊沢のテンションは少し下がっていた。丸山は熱心に誘った。「炊飯器も持って行くから、日本食も食べられます」。そこまで言うのなら、と伊沢は心を決めた。

 団体戦は、普段の個人戦と戦い方が違う。相方の調子、意思疎通、互いの得手不得手を補う相性−。1個のボールを交互に打つ難しさもあり、全ての歯車がかみ合わないと好結果は望めない。2人は、そのことをよく知っていた。

EMCワールドカップで伊沢利光と組み、優勝した丸山茂樹=2002年12月(AP・共同)

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 小学生の時から丸山が「とっくん」、伊沢が「マル」と呼び合う仲。東京・日体荏原高では丸山の2学年先輩が伊沢だった。伊沢が大学生、丸山が高校生の時にはペアを組んで大会を制したこともあった。

 「とっくんとは身長も同じで、歩測もぴったり一緒。僕が歩測して117歩の距離で、そっちはどうと聞くと、117歩と返ってくる。距離測定器もない時代だから安心できたし何よりも波長が合った」(丸山)

 メキシコでは絶妙のコンビプレーを披露した。初日は13位と出遅れながら、2日目は伊沢のショットと丸山のパットがさえ、5位に浮上。3日目は1イーグル、12バーディーの58をマークし、首位に躍り出た。世界の飛ばし屋と肩を並べる伊沢のパワーと、米ツアーで磨き上げた丸山のアプローチがかみ合った。

 伊沢は、01年のマスターズで日本人最高の4位(その後に片山晋呉が並ぶ)に入った実力者。調子に乗ると、相手が誰であろうと手が付けられなかった。そんな伊沢の性格を丸山は熟知していた。「人を乗せるのは、僕が得意とするところ。炊飯器に始まり、気配り、目配り、思いやりがあのW杯だった」

 キャリーで295ヤードの谷越えを狙ってもらうと、「バカ力を出して本当に越えていった」と丸山は振り返る。米ツアーの仲間に「何であんなに飛ぶんだ」「道具は何を使ってるのか」と次々に聞かれると、「すごいね、とっくん。みんなが注目しているよ」と伊沢の気持ちを盛り上げた。

W杯メキシコ大会の快挙を振り返る伊沢(末松茂永撮影)

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 心と技が解け合った最高潮の状態で、米国と一騎打ちとなった最終日に臨んだ。「当初は上位に入ればと思っていたけど、最終日は優勝を狙っていた」と丸山。伊沢も同じだった。13番のダブルボギーで米国に逆転を許したが、16、17番の連続バーディーで並んだ。前の組の米国がダブルボギーをたたいた18番、夢心地の伊沢がパーパットを沈めて100万ドル(約1億2100万円=当時)の優勝賞金を手にした。

 米ツアーを主戦場にしていた丸山は、W杯への思い入れが強い。「奇跡の1週間だった。個人で勝つよりも100倍難しい。今後、欧米のツアーで優勝する日本人は出てきても、W杯優勝は生きている間に見られるかどうか。もし現れたら、喜びを分かち合いたい」

 表彰式が終わると、あらかじめ手配したプライベートジェット機で2人は米ロサンゼルスへ飛んだ。機内での数時間は、キャディーらスタッフと大盛り上がり。到着すると、丸山が行きつけだった焼き肉店で祝杯を挙げた。一足先に帰国した伊沢は、空港でまばゆいばかりのカメラのフラッシュを浴びた。「出国前は取材されなかったのに」と偉業を実感した。

 2人で成し遂げた世界制覇は、唯一無二の財産となった。「生涯で一番うれしい優勝。小学生のころからふざけ合っていた人と世界一になった喜びは例えようがない」。丸山が声のトーンを上げて回想すれば、伊沢も「1人では果たせない。あの優勝は別格。日本代表というより、マルとつかんだ勝利。今の若い人が、俺たちも、と後を追ってほしい」と話す。16年以上がたっても、栄光は色あせていない。 (末松茂永)

米ツアーでの成功支えた観察眼

 2000(平成12)年から米ツアーに本格参戦した丸山は、通算3勝を挙げた。松山英樹が現れるまで、複数勝利を収めた唯一の日本人だった。

 「自分のゴルフが優勝モードに入ったら、日本も世界も変わらない。どんな相手がきてもスイッチさえ入れば、自分でも戦えることを一発目の優勝が教えてくれた」。01年のミルウォーキー・オープンで初優勝。1983(昭和58)年のハワイアン・オープンを青木功が制して以来、日本選手18年ぶりの米ツアー制覇で自信が芽生え、08(平成20)年まで8年間、シード権を守り続けた。

 一方で、憧れだったマスターズなどでは力を発揮できなかった。「狙って勝てるのは、タイガー・ウッズのようなウルトラスーパースターだけ。僕みたいなのはひたすら、優勝モードになるのを待つだけ」。野球の投手に例えると力で三振を取りにいくのではなく、自身は球種を変えながら丹念にコースを狙い、我慢強く投げ続けるタイプだという。

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 米ツアーでの成功は「周到な準備」と類いまれな「観察眼」に支えられた。日本を離れる1年ほど前から、本格的な肉体改造に着手。長距離移動に備え、7キロ減量した。また、ツアー1年目から英語のできるスタッフと日本語を話せるアイルランド人キャディーを帯同した。

 ツアー会場では食堂の端っこに座った。「ベーコンをくわえながら食材を探す選手、サラダから順序よく食べる選手。どういう服装を好み、どの道具を使っているのか、性格に至るまで全て観察した」。その中で、自分に合うものだけを取り入れた。「米国では観察力と、己の力を客観視できたことがよかった」。世界の猛者と競うツアーでは、身の丈にあったゴルフが心のよりどころだった。

 ▼丸山茂樹(まるやま・しげき) 1969(昭和44)年9月12日生まれ、千葉県市川市出身の49歳。169センチ、73キロ。日大3年だった90年の北京アジア大会で個人、団体を制したほか、数々のアマチュアタイトルを獲得。92年にプロ転向。日本ツアー通算10勝、米ツアー同3勝。2016年リオデジャネイロ五輪では日本代表ヘッドコーチ。今年9月からは日米両シニアツアーの出場資格を得る見込み。

 ▼伊沢利光(いざわ・としみつ) 1968(昭和43)年3月2日生まれ、神奈川県鎌倉市出身の50歳。169センチ、70キロ。8歳でゴルフを始め、日体大時代に関東アマ制覇。同大学を中退し、89年にプロテスト合格。米国で腕を磨き、95年の日本オープンでツアー初優勝。2001、03年に日本ツアー賞金王。07年には国内メジャー3冠を達成するなどツアー通算16勝。昨季から日本シニアツアーに参戦している。

 ◆W杯ゴルフ 1953(昭和28)年、「ゴルフの五輪」を理念に「カナダカップ」として始まった。67(昭和42)年にW杯と名称変更。日本では国内初開催だった57年に埼玉・霞ケ関CCで中村、小野組が優勝し、ゴルフブームに火が付いた。2009(平成21)年以降は主に隔年で開催。18(平成30)年11月に豪州で行われた大会では小平智、谷原秀人組が23位だった。通算優勝回数は米国が24度と圧倒的な強さを誇り、次いでオーストラリアと南アフリカの5度、スペインの4度と続く。

 

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