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【スポーツ史 平成物語】

伝説の3番ウッドアプローチ ジャンボ尾崎、前人未到100勝

2019年1月18日 紙面から

通算100勝を挙げ、優勝カップを高々とあげる尾崎=宮崎市のフェニックスCCで

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第8部 ゴルフ編(1)

 年が明け、平成も残すところあと3カ月余り。2019年の初っぱなとなる「スポーツ史平成物語」の第8部は、ゴルフ編。この30年間、昭和に礎を築いたスーパースターが全盛期を迎え、彼らに刺激を受けた次の世代がまた新しい時代を築いた。第1回は、平成初期の象徴でもあった「ジャンボ尾崎」こと尾崎将司(71)の偉業を振り返る。 (文中敬称略)

 1996(平成8)年11月17日。それは、日本のプロゴルフ界にさんぜんと輝く金字塔が打ち立てられた日だ。前人未到のプロ通算100勝。その主は、ロングドライブを駆使し、豪快なゴルフでファンを魅了した尾崎将司。デビュー直後に登場した大型旅客機・ボーイング747にちなんだ「ジャンボ尾崎」が愛称だ。

 プロ27年目、49歳の時だった。71(昭和46)年の日本プロ選手権で自身がプロ初優勝を飾った宮崎市のフェニックスCCで開催されたダンロップ・フェニックス。海外の強豪がこぞって出場することで知られるこの大会で、史上初の大会3連覇を成し遂げ、プロ通算100勝を達成した。

 「100勝目はフェニックス。プロになって初めて優勝したところ。何かがつながってくるし、意味のある100勝目だったね」。ジャンボは、思い出の地での節目となった優勝を振り返る。そして「普通にやっていれば勝てた時代。年間10数試合にしか出なくて、そのうち半分近くに優勝できた。俺は強かったけれど、ほかが弱かったんじゃないか」とも。95年までにプロ通算93勝。年が明けると100勝への期待が高まった。9月のジュン・クラシックで99勝目を挙げたが、その後は数試合、足踏み状態が続いた。

 そうして迎えたダンロップ・フェニックス(パー71)。初日は海外メジャー通算8勝のトム・ワトソン(米国)に首位を譲ったものの3バーディー、ボギーなしの3アンダー、68で2打差4位。2日目はドライバーを愛用のメタルヘッドから新兵器のチタンヘッドに替えたことが奏功し、4バーディー、ボギーなしの67をマークして首位に並んだ。

今なお語り草になっているダンロップ・フェニックス3日目の3番ウッドでのアプローチ

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 3日目は、詰め掛けた大ギャラリーに秘技を初公開。ラフからの寄せに3番ウッドを使ってみせた。「フェニックスのティフトン芝はボールが沈んでしまう。こんな時、外国人選手はよくウッドを使うのを見てたからね。練習なんかしたことないよ」と照れくさそうに話したが、その妙技がさえるなど3バーディー、1ボギーの69。2位に3打差をつけ、偉業に王手をかけた。

 最終日は雨が降っていた。水分をたっぷりと吸ったラフが選手を苦しめた。ジャンボも1バーディー、3ボギーと苦しんだが、追いかけるワトソンも73とスコアを落とし、3打差のまま逃げ切った。ワトソンらを従えて最終18番のグリーンに戻って来たジャンボには、1万9000人あまりの大観衆が万雷の拍手で迎えた。

 優勝を決めた直後のエピソード。「(最終日に)一緒に回っていたのがワトソンというのは知っていた。あと一人は誰だった?」と、ジャンボは相棒の佐野木計至キャディーに聞いた。「あんた、本当にそんなこと言っているの? 直道でしょう」。佐野木キャディーに大笑いされた。末弟の尾崎直道が同組にいたことを忘れるほど、プレーに集中していたのだ。

 プロ初優勝から25年。順風満帆ではなかった。1勝や未勝利の年もあった。世間からは長いトンネルと言われた時期もあった。それでも、自身はスランプとは思っていなかった。「勝負は運、不運だけじゃない。悪い結果には因果関係がある」と考え、それを理詰めで解明しようとした。

 努力は惜しまなかった。「よく、負けた試合からいろんなことを学ぶというけれど、俺の場合は勝っても学ぶんだ。自分の気に入らなかったところを考えてしまう。優勝したこの試合の中で何が足りなかったかとかね。予習、復習だね。それだけゴルフが好きだということ」

 普通なら優勝すればホッとひと息つきたいところだが、ジャンボは帰宅してすぐにクラブを持ちだし、黙々とショットを繰り返す。納得するまで練習を続けて次の試合につなげる姿勢が、偉業達成の原動力になっていた。

 「プロスポーツはお客があってナンボ。そういうプロ意識はデビュー当時からあった。ファンを喜ばせるということが、常に頭の中にあった」という。プロゴルファーにとってフェアウエーは、歌手や役者の舞台と同じ。「賛否両論あったが、デビュー当時から派手なウエアを着ていた。これは舞台衣装だと思って着ていた」そうだ。

 好プレーなどのパフォーマンスによって生まれたギャラリーの笑顔が、ジャンボのVのエネルギーになったことは間違いない。「一番大事なことは、ゴルフに対する情熱がどれくらいあるかだよ」。プロ通算100勝達成で、ジャンボ尾崎がプロゴルフ界の伝説となった。 (櫛谷和夫)

2012年の日本オープン予選ラウンドで一緒に回る(左から)青木、中嶋、尾崎=那覇GCで

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AONライバルで切磋琢磨

 ジャンボ尾崎を語る上で欠かせないのが、ライバルとなった青木功(76)と中嶋常幸(64)の存在だ。この3人は頭文字を取って「AON」と称され、多くの激闘でゴルフシーンを盛り上げた。

 平成の通算勝利数はジャンボが54勝。4歳5カ月年上の青木は6勝にとどまるが、日米のシニアツアーで計18勝している。7歳9カ月年下の中嶋は17勝、国内シニアツアーでも5勝を挙げた。

 3人がデッドヒートを繰り広げた名勝負のひとつとされるのが、1991(平成3)年10月に山口・下関GC(パー72)で行われた日本オープン。2日目を終え通算2アンダーのジャンボに対し、中嶋は2オーバー、青木は6オーバーと苦戦した。

 しかし、3日目にジャンボが77と大きく崩れたことでV争いは混沌(こんとん)。中嶋は3日目に71をマークして4位に浮上し、最終日は青木が同日のベストスコアに並ぶ69で猛追。最終的には中嶋が通算2オーバーで優勝し、青木は3位、ジャンボは5位だった。

 3人は2012(平成24)年の日本オープンで予選ラウンドの2日間を一緒に回り、ファンを喜ばせた。中嶋は3位で決勝ラウンドに進んだが、ジャンボと青木は予選落ちした。

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72歳 新時代もレギュラーツアー貫く

 昭和の中盤から平成にかけて全盛期を迎えた尾崎は、72歳で迎える新しい時代もレギュラーツアーで戦おうとしている。昨季は7試合に出場し予選落ち3、棄権4。予選を通過したのは2013(平成25)年4月のつるやトーナメントで51位となったのが最後だ。

 50歳以上が対象のシニアツアーからは出場のラブコールが再三届いているが、かたくなにレギュラーで戦う姿勢を貫いている。

 一方で、昨季終盤には「ファンに感動を与えることができなくなった。感動を与えられないということはプロゴルファー失格だ」と引退をにおわせるような発言も。希代の名ゴルファーの動向は、新しい時代になっても目を離すことができない。

 ▼尾崎将司(おざき・まさし) 1947(昭和22)年1月24日生まれ、徳島県宍喰町(現海陽町)出身の71歳。181センチ、90キロ。セブンドリーマーズラボラトリーズ所属。徳島海南高(現海部高)では野球部のエースで64年にセンバツ大会優勝。65年にプロ野球の西鉄入りしたが、67年限りで退団。通算成績は20試合に登板し、0勝1敗。70年にゴルフのプロテストに合格し、71年に初優勝。海外メジャーは89年の全米オープン6位が最高。次弟・健夫と末弟・直道もプロゴルファー。

 

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