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【スポーツ史 平成物語】

渡辺恒雄VS川淵チェアマン 実は恩人、Jを広めた因縁バトル

2018年11月27日 紙面から

Jリーグ創生期について語る日本サッカー協会の川淵三郎相談役(七森祐也撮影)

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第6部 サッカー編(1)

 今回の「スポーツ史平成物語」は、暗黒の低迷期から一転、急激な発展期に突入した日本サッカーにスポットを当てる。一大転換点となった1993(平成5)年のJリーグ誕生で、反対勢力を押し切り、辣腕(らつわん)を振るったのは川淵三郎(81)だった。当時、読売新聞社・渡辺恒雄社長(現主筆)と繰り広げたバトルと25年後の和解、鹿島アントラーズ成功秘話などを川淵の記憶と言葉で振り返る。 (文中敬称略)

 1968年メキシコ五輪で銅メダルを獲得して以降、長らく低迷していた日本サッカー界に、突如としてプロ化構想が持ち上がったのは1980年代後半だった。

 <川淵>「僕は古河電工名古屋支店の営業部長でいて、(日本リーグの)責任者からプロ化の電話があって『成功するわけはないな』っていう意味で、『好きなようにやれば』って言った記憶があるんだよね。人気がない。国際的に強くもない。マスコミも取り上げない。無い無い尽くしで、よくプロ化なんて言えるなあ、と。日本のサッカーそのものも、人に見せるようなレベルじゃなかったと言ってもいいんじゃないかな」

 紆余(うよ)曲折を経て、プロ化の旗振り役を引き受けた川淵が最も重要な理念として掲げたのが「地域密着」だった。

満員の国立競技場で行われたJリーグ開幕セレモニー=1993年5月15日

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 「プロの一番の成功の目安は観客動員なんだよ。当時の平均入場者数は3000人くらい。思い切って、1万5000人収容のナイター照明を持った競技場を確保するように言ったことが一大革命だったんだ。当時、日本のプロの考え方は読売ジャイアンツそのもので、『全国でお客さんが入るためにはどうしようか』なんて考えたら、とてもじゃないけど不可能に近い。その地域の人がチームをサポートして、地域の人たちがスタジアムで試合を見ることだけで経営が成り立つ。『ホームに根付け』『ホームに密着しろ』と、口を酸っぱくして言ったのはそういうことだよね」

 川淵が発信するJリーグの理念、在り方、手法を巡り、読売新聞社の渡辺恒雄社長との激しいバトル、論戦は世間の注目を引いた。

 「ナベツネさんがいろんなことで僕にけちをつけて、『Jリーグは、川淵の下では成功しない』と。でも、そうやっていろいろ言われる度に、(テレビ朝日の報道番組)ニュースステーションの久米(宏)さんが番組に呼んでくれて、Jリーグの理念、考え方、将来の方向性を、番組を通じてPRできたのはナベツネさんのおかげだよ。初めのころは『いいかげんにしてくれ』と思っていたけど、10年くらいたって『あぁ、ナベツネさんはJリーグの恩人だな』なんてつくづく思ったね」

 Jリーグ創設から25年後。その渡辺主筆と当時を振り返りながら思いを語り合い、打ち解け“和解”したという。

 「ナベツネさんに『川淵は独裁者だ』と言われたことがあってね。この前(昨年12月)、ナベツネさんと対談した時、ナベツネさんは独裁者と言われても別に悪い気はしなかったんだろうなと思って聞いたんだよ。そうしたら、『とんでもない。独裁者と言われて、俺はえらい損をした』って言うんだよ。新聞社のトップが独裁者なんて言われるのは、民主的に経営が行われていない証拠なんで、『そういうことを言われるのは非常に不本意だった』って。僕は不本意じゃなかったんだよね。独裁者、いいんじゃないのって。ナベツネさんと、そこで大笑いしたんだよ」

 初年度の参加クラブを10チームに絞り込む際、最後の最後に選んだ鹿島こそが、Jリーグの理念を最も体現するクラブとなった。

 「鹿島(当時は町)は人口4万5000人の田舎で、プロのクラブを作っても成功するとは誰も思わないよ。鹿島は一番成功しない場所だよ。でも、屋根のついたスタジアムの存在がのちの日本サッカーのスタジアム建設に大きく影響を与えるという意味で、前例をつくるためにプロのクラブを作ったんだ。それが、こんなに成功するとは思わなかった」

ビッグネーム対決となった鹿島−名古屋の開幕戦、リネカー(写真左)擁する名古屋を鹿島は圧倒。ジーコはハットトリックを決めた(写真右)=1993年

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 1993年5月16日、開幕戦の鹿島−名古屋戦ではジーコの活躍もあり、加速度的な人気を生み出していく。

 「スタジアムに1万5000人入るうち、実際は1万人が有料入場者で、あとは俺に内緒でタダの客を入れてたらしいんだよ。俺は『絶対にタダの客を入れるな』って怒ったからね。2試合目は3000枚しか売れてなかったんだ。どうしようかと地元では大変だったらしいんだけど、ジーコのハットトリックとアルシンドの大活躍で、それ以降の8年間、1回も当日券の発売はなし。全て前売り券が完売だった。サッカー専用スタジアムで“おらが町”の代表が、クラブが、世界的に有名なジーコが、名古屋を、リネカーをぶちのめした構図が鹿島の町民だけじゃなくて関東一円で一気に人気になった。鹿島のチケット販売はすごく並んだりして大変だから、往復はがきの申し込みにしようとやったら、鹿島、いや茨城県にあった往復はがき30万枚全部が売り切れちゃった。異常なスタートだったわけだよね」

 Jリーグ誕生から四半世紀がたち、いまや全国に54のJクラブが生まれた。それでも、川淵は愛を込め、あえて厳しく指摘する。

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 「一番の問題は、1試合の平均観客動員がほとんど横ばいで2万人を超えないこと。スタートの時に1万8000〜2万人弱だったから、今は3万人くらいになっていないと、観客動員として成功したとは言えない。年間の総観客動員数で言えば、プロ野球は2000万人を超えている。やはり、Jリーグも1500万人とか2000万人に近づく数字になってほしい。唯一、不満があるとすれば、それだけだね。スタジアムの快適性、非日常の空間があって、リピーターとして何度でも行きたいという人がどんどん増えていく状況じゃなくちゃいけない。Jリーグのスタート時とは比べものにならない上質なスタジアムができたけど、世界と比べるとまだまだ工夫すべきことはある。1試合の平均観客動員数を本当は3万人と言いたいけど、5年以内に何とか2万5000人という数字を確保してほしいなと思う。そうならないと、Jリーグは成功とは言わないね」

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 ◆渡辺社長の「独裁者」発言 1994年12月9日、Jリーグを2季連続で制したV川崎(東京V)の祝賀会(東京都内ホテル)で、スピーチに立った読売新聞社の渡辺社長(当時、写真)が名指しこそ避けたが「独裁者が抽象的な理念を振りかざすだけではスポーツの発展はない」などと、会を欠席した川淵チェアマンを暗に批判した。チェアマンは翌日「独裁者などという古い言葉はそのまま(渡辺社長に)お返しする」と応酬した。

 ▼川淵三郎(かわぶち・さぶろう) 1936(昭和11)年12月3日生まれ、大阪府高石市出身の81歳。現役時代は172センチ、72キロ。MF、FW。大阪府立三国丘高から早大。卒業後は古河電工(J2千葉の前身)でプレー。日本代表26試合8得点。現役引退後は、古河電工のコーチ、監督などを経て80年には日本代表監督に就任した。Jリーグ初代チェアマン。2002年7月には日本サッカー協会の会長となり3期6年務めた。08年6月に退任後も名誉会長、最高顧問、相談役(現職)としてかかわる。その辣腕(らつわん)はサッカー界だけにとどまらず、首都大学東京理事長、Bリーグ理事長などを歴任。

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