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【スポーツ史 平成物語】

「落ちろ」金へ飛ぶ原田に叫んだ レジェンド葛西を支える闘争心

2018年10月27日 紙面から

ソチ五輪、ジャンプ男子ラージヒルで銀メダルを獲得し、日の丸を手に喜ぶ葛西紀明=2014年、ソチで(内山田正夫撮影)

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第5部 冬季五輪編(4)

 日本人最多となる8度の五輪出場を誇るノルディックスキー・ジャンプ男子の葛西紀明(46)=土屋ホーム=が最初に出場した1992(平成4)年のアルベールビル大会が平成最初で、今年2月の平昌大会が平成最後。つまり、平成の冬季五輪すべてに出場している唯一の選手なのだ。日本のジャンプ界は98(同10)年の長野大会で団体と個人の金メダルを獲得したが、その後はルール変更もあって低迷。そんな平成の時代を駆け抜けてきた元祖レジェンドに迫る。 (敬称略)

 気がつけばジャンプ台が見える場所にいた。1998年の長野大会、葛西は日本代表にこそ選ばれ、個人戦に出場したが、団体戦では落選。その当日、金メダルに向かって吹雪の中を飛ぶ原田雅彦(現雪印メグミルク監督)に向かって「落ちろー!!」と叫んでいた。

 「叫んでいましたね。あのころはギラギラしていた。他の人が金メダルを取って、うれしいわけがない。それがメチャクチャ強かったんです」

笑顔で平成を振り返る葛西=東京都内で

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 94(平成6)年のリレハンメル大会は団体メンバーに選ばれ、金メダルは目前だった。だが、アンカー・原田の大失速で銀メダル。続く長野大会も団体メンバーに入る実績も実力もあったが、直前合宿のサッカー中に原田と接触して左足首を負傷。そんな因縁もあったから、叫ばずにはいられなかった。

 同じようにリレハンメル大会の団体銀メンバーで長野大会は代表から漏れ、テストジャンパーとして参加していたのが、現在は名古屋で営業職についている雪印メグミルクの西方仁也(49)。「悔しがっていましたね。その気持ちはちょっと分かる。でも、原田君は葛西君の手袋と僕のアンダーシャツを着けて飛んでいたんですよ」。そして当事者の原田(50)も、懐かしそうに振り返った。

 「よく原田と葛西は仲が悪いと言われるけど、そんなことはないんですよ。長野五輪のことは(葛西が)講演会とかでも言うみたいだけど、ネタみたいなもので」

 こう笑う原田にとって葛西は北海道・東海大四高(現東海大札幌高)の4学年後輩。そんな後輩を「本当にすごい」と言う。最初に覚えているのは88(昭和63)年3月の宮様大会(大倉山)。中学3年だった葛西がテストジャンパーとして参加し、全選手よりも飛んだ“伝説のテストジャンプ”だ。

 「怖さを知らないかのように体を投げ出して飛んでいた」。その後、天才ジャンパーとして注目を集め、19歳でアルベールビル大会にも出場した。以降はライバルでもあり、戦友でもあったが、先輩が称賛するのは長野大会後の姿である。

 長野大会後に実施されたルール変更は、日本ジャンプ界に大きな影響を与えた。スキー板の長さが「身長プラス80センチ以下」から「身長の146%以下」に変更されたことで、多くの選手が苦しんだのだ。長野大会の翌シーズンこそW杯総合3位に輝いた葛西だが、その後も飛びすぎ防止や減量防止を目的としたスキー板、スーツなどの度重なるルール変更で、次第に海外で結果を残せなくなる。そんなとき、あるコーチとの出会いが再び上昇気流に乗せた。

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(上)1994年当時の葛西のジャンプ(共同) (下)2017年の葛西のジャンプ(共同)

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 カリ・ユリアンティラ。名ジャンパーのニッカネンを育てたフィンランド人コーチが2005(平成17)年に全日本のヘッドコーチに就任すると、「腰を折って『くの字』で飛んだらどうだ」と言われた。これまでは頭がV字に開いたスキー板より前に出るほどの前傾姿勢。「カミカゼ」と呼ばれ、世界を席巻したスタイルだが、スキー板が短くなったら、逆に揚力が得られないことがわかった。理論に基づけば“くの字スタイル”が正解だった。

 「日本チームはボクも船木(和喜)も、みんなきれいな真っ平らになるような飛型だった。これが新しいルールには合わなくて、変えるのに10年くらいかかった。昔は背が低いと不利だと言われていたけど、くの字にすればいい。飛び方の問題でしたね」

 こう話す葛西のセールスポイントは柔軟な頭だ。その後、両手を広げる「ムササビスタイル」を確立。そして41歳で出場した14年のソチ大会で個人ラージヒル銀メダル、団体で銅メダルを獲得した。海外の選手から絶賛された「レジェンド」はその年の流行語にもなった。そんな葛西を自分のことのように喜んだのが原田だった。

ソチ五輪ジャンプ男子ラージヒルで銀メダルを獲得した葛西の1回目のジャンプ=ソチで(内山田正夫撮影)

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 「ルール変更で日本に影響があったというけど、他の国でも結果を残せなくなった選手はいた。新しい飛び方に対応できなくなったんです。僕も試行錯誤したけど、以前の飛び方が体に染みついていたのもあるし、体の衰えもあった。そういう意味で葛西はすごい。メダルを取ったといっても10年かかった。努力を積み重ねているんです」と目を細めた。

 もう一つ、葛西のスキー人生において忘れてはならないのが所属チームだろう。高校卒業後、名門・地崎工業(現岩田地崎建設)に入社したが、98(平成10)年にスキー部が廃部。さらに移籍したマイカル(現イオンリテール)も経営不振で01年に廃部となった。そんなとき、スキー部を創設して受け入れてくれたのが、現在も所属する土屋ホームだった。

 「あこがれている秋元(正博)さんがいる地崎工業は大きな会社で、まさかこうなるとは思わなかった。大きなショッピングセンターのマイカルも、まさか。当時29歳、周囲から『引退か』という目で見られる中で、土屋ホームが手を挙げてくれた」

 入社して今年で17年。当時、新社長に就任し、現在は会社を離れ、名誉監督、北翔大の理事として見守る川本謙(69)は「社会貢献というか、会社のシンボル的なものがほしかったから創部しましたが、本当につくってよかったと思っています。あのとき、受け入れるのは葛西だけと思っていたけど、『何とか他の選手も』とお願いされた。リーダーシップがあるんだと思いましたね」。同社のスキー部員はすべて正社員。現在は取締役まで昇進した元スキー部員がいるそうだ。

 「ここまで長くやっているのは、あの長野があったからというのはあります。やっぱり金メダルがほしい。でも、今は応援してくれる家族やファン、それに会社の人たちみんなの喜ぶ顔が見たいからかな」と話す葛西は現在、49歳で迎える22年北京五輪を目指している。「体力では負けるけど、瞬時の判断力や対応力は若いやつとは雲泥の差」。46歳になってなお目をギラギラさせている「元祖レジェンド」の挑戦は、平成の世が終わっても終わりそうにない。 (兼田康次)

 ▼葛西紀明(かさい・のりあき) 1972(昭和47)年6月6日生まれ、北海道下川町出身の46歳。176センチ、60キロ。10歳でジャンプを始め、1988年に当時史上最年少でW杯に出場。北海道・東海大四高(現東海大札幌高)から地崎工業、マイカルを経て土屋ホーム所属。1994年リレハンメル五輪団体銀メダル、2014年五輪ラージヒル銀、団体銅メダル。W杯通算17勝。家族は夫人と1女。

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金メダルを決めた船木(左)に飛びつく原田、斎藤、岡部=白馬村のジャンプ会場で

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【平成名場面】長野で悲願ジャンプ団体金

 ▼1998年長野大会の団体(岡部孝信、斎藤浩哉、原田雅彦、船木和喜)

 吹雪の中で開催されたジャンプ団体で悲願の金メダルを獲得した。前回リレハンメル大会団体で失速した原田が1回目79.5メートル、エース船木も118.5メートルと距離を伸ばせなかったこともあって、日本は1回目を終えて4位。悪天候のため、打ち切りの可能性もあったが、日本代表に漏れた西方仁也らテストジャンパーたちが吹雪の中で飛び続けて、再開可能なことを証明した。

 2回目は1人目の岡部が137メートルの大ジャンプでトップに立つと、2人目の斎藤が124メートル、3人目の原田は137メートル、アンカーの船木が125メートルでまとめ、待っていた3人が倒れ込むように抱きついた。

 

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