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【スポーツ史 平成物語】

荻原健司、今も見果てぬ金色の夢 キング・オブ・スキーの後悔

2018年10月25日 紙面より

当時を振り返る北野建設の荻原GM=長野市の北野建設スポーツセンターで(兼田康次撮影)

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第5部 冬季五輪編(3)

 ノルディックスキー複合で1992(平成4)年アルベールビル大会と94(同6)年のリレハンメル大会の団体を連覇したエースでW杯個人総合3連覇の偉業を達成した荻原健司(48)は現在、北野建設のゼネラルマネジャー(GM)を務めている。平成の時代が生んだ「キング・オブ・スキー」は大きな悔いを残したまま指導者を続けていた。 (敬称略)

 1998(平成10)年2月の長野大会、前半のジャンプを9位で終えた荻原は後半の距離をトップから1分30秒差でスタートした。まずは前半3位だった双子の弟・次晴に追いついた。その後、海外勢にも食らいつく。そして、1人抜き、2人抜き、最後は先頭も抜いて歓喜のフィニッシュ! そこでパッと目が覚める。現在、北野建設でGMとして後進を指導している荻原は、この夢を何度も見ているという。

 「現実的には4位だったんですけどね。年に何回か見ますね。長野五輪で金メダルを取る夢を。今なぜこういう指導者をやっているのかと、ふと考えることがあって、結局、個人の金メダルを取れなかったからだろうなって。こういう夢を見ることにしても、不完全燃焼感というか、やり残した感があるんです」

 五輪の金メダルは団体で2つ獲得した。W杯総合優勝も3度ある。世界選手権の金メダルも2つ持っている。間違いなくノルディック複合という競技を日本に広めた立役者だ。なのに不完全燃焼…。どうしても手にできなかった個人の金メダル。だから現在も後輩たちを指導していた。

 群馬県草津町で次晴との双子の兄として生まれた荻原は、草津中時代にノルディック複合に専念すると、メキメキ頭角を現した。早大4年時に開催された平成最初のアルベールビル大会で五輪初出場。最初の転機は大会直前の合宿で、当時の全日本のコーチだった斉藤智治(現全日本スキー連盟常務理事)からある提案をされた。

 「当時はジャンプがクラシックスタイルからV字スタイルへの転換期。健司は当時、クロスカントリーは速いけど、ジャンプが下手。だから大会直前だったけど、やってみないかと」

 わずか2週間しかなかったが、前年12月に札幌で開かれたジャンプのW杯でV字スタイルだったシュテファン・ツント(スイス)の映像を参考に挑戦。すると驚くことに誰よりも飛んだ。「当時ジャンプが下手で、自分を変えたいという気持ちが強かった。そんなとき斉藤さんから言われて『やります』と。今思うと下手でよかった」。もともと脚力があった荻原は、一気にエース格になると、アルベールビル大会の個人は7位だったが、団体で金メダル。それは冬季五輪では1972年のジャンプ70メートル級の笠谷幸生以来2つ目とあって、一気に注目の的となった。

リレハンメル五輪の複合個人前半飛躍 6位に終わり、厳しい表情の荻原健司=1994年2月18日、リスゴーシュバッケネで(共同)

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 荻原によると、アルベールビル大会のノルディック複合でV字スタイルだった選手は3人だけ。「たった1シーズンでも早く始めたアドバンテージは大きかった」。いち早く取り組んだ荻原は翌シーズンのW杯で初優勝を含む6勝をマーク。ジャンプで大幅なリードを奪い距離で逃げ切るパターンで、日本人初となる個人総合優勝を決めた。93年の世界選手権では個人、団体ともに金。このシーズンからW杯個人総合3連覇を飾るのだが、絶頂期で迎えた翌94年のリレハンメル大会で悪夢が待っていた。

 「大会前に他国のコーチから『日本は表彰台独占だね』と言われたくらい強かった」。当時も全日本コーチだった斉藤が振り返るように、荻原は絶好調。直前のW杯は6戦5勝で乗り込んだが…。得意なはずの前半のジャンプは89メートルと88メートルで6位発進。トップと1分46秒差でスタートした距離では逆転できずに4位でゴールした。

 当時、ジャンプ台で指示していた斉藤は「あのときは本当に風が悪かった。こっちもギリギリまで待っていたけど、不運でした。健司の失敗ジャンプじゃない」と説明した。だが、荻原は不運で片づけようとはしなかった。

 「そのとき絶好調だったんです。だから余計なことは絶対にしない方がいいと思った。ここでミスをすると、4年後まで待たないといけない。今のままでいいって。でも今までそんなことを考えて飛んだことがない。守りに入って、消極的で、ファイティングスピリットが足りなかった」

 4年に1度ゆえに失われた攻めの姿勢。個人の直後に行われた団体ではその反省を生かして大ジャンプを披露した。2つ目の金メダルを手にしたが、悔しさは残った。

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 その後の荻原を待っていたのは、逆風とさらなるプレッシャーだった。96年5月には前半ジャンプ得点の後半距離へのタイム差換算が変更。7点1分が9点1分になったことで、ジャンプで大幅リードを奪えない状況となった。そして地元・長野での五輪も自らのクビを締めていた。「競技力も落ちてきて、周囲の期待とは逆になっていた。長野(大会)に出ることが義務感みたいになっていたんです」。結局、地元での五輪は個人も団体もメダルなし。そのシーズン後の引退も考えたが、「もう一度楽しい気持ちを取り戻したい」と現役を続行。4度目のソルトレーク大会も出場したが、やはり個人のメダルは遠かった。

 「戻れるなら、リレハンメルのジャンプ台かな」。こう笑う荻原の大学、所属チームの後輩・渡部暁斗はソチ五輪、今年2月の平昌五輪ともに個人で銀メダル。平成の時代の最後まで、個人の金メダルはお預けとなってしまった。悲願達成へのカギを聞かれると、苦笑いを浮かべながらこう話した。

 「うーん。子どもにスキーをやらせないといけない。普及しないと」。荻原によると小学生時代に始めても、中学生になった段階で9割くらいが経済的な理由などで辞めていくという。確かに今年2月の全国中学校スキー大会の複合参加者は50人。もともと少ないとはいえ、20年前の大会参加者76人から減少している。果たせなかった個人金メダルの実現に向けて、指導と普及を続けていく。 (兼田康次)

 ▼荻原健司(おぎわら・けんじ) 1969(昭和44)年12月20日生まれ、群馬県草津町出身の48歳。169センチ。双子の弟・次晴と競技を始め、ともに長野原高、早大を経て、北野建設に入社した。五輪初出場の92年アルベールビル大会は個人7位も団体金メダル、94年リレハンメル大会で団体2連覇を達成した。W杯個人総合3連覇などW杯通算19勝。五輪は4大会出場し、2002年5月に現役引退。04年には参院選に自民党から比例代表で出馬し当選、1期を務めた。現在は北野建設スキー部GM。

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複合団体後半距離 ゴールインする最終走者の荻原健司=1992年2月、クールシュベルで(共同)

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【平成名場面】冬季五輪20年ぶり2つ目の金

 ▼1992年アルベールビル大会の団体

 三ケ田礼一、河野孝典、荻原健司といずれも五輪初だった3人で出場すると、前半ジャンプでトップに立ち、2位と2分27秒5差をつけてスタートした後半距離30キロでリードを守った。冬季五輪での日本の金メダルは72年札幌大会スキー70メートル級ジャンプの笠谷幸生以来20年ぶり2つ目。日の丸を手にゴールした当時早大4年の荻原が日本に歓喜をもたらした。

 

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