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【スポーツ史 平成物語】

スピードスケート復活の仕掛人 平昌で結実!湯田強化部長の改革

2018年10月24日 紙面から

平昌五輪スピードスケート、女子団体追い抜きで金メダルを獲得し、表彰台に跳び乗る(最上段右から)高木菜、高木美、佐藤、菊池=2月、江陵で(田中久雄撮影)

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第5部 冬季五輪編(2)

 2014(平成26)年の冬季五輪ソチ大会でどん底まで落ちた日本スピードスケート界は、わずか4年で復活を遂げた。今年2月の平昌大会で金メダルは女子団体追い抜きに女子マススタート、女子500メートルと過去最高の3つで、メダル総数も過去最高の6つ。飛躍の立役者は選手や指導者たちだが、新たなシステムを作り上げた仕掛け人も見逃せない。日本スケート連盟の橋本聖子会長(54)の命を受け、ソチ大会後に就任したスピード強化部長・湯田淳(46)の改革に迫った。 (敬称略)

 それは橋本会長の秘策かつ勝負手だった。メダルはなく8位までの入賞も4つだけ。大惨敗だった2014年ソチ大会を終えた直後の3月、新たなスピード強化部長として白羽の矢を立てたのが湯田だった。当時まだ41歳。科学面でサポートする強化部の一人ではあったが、五輪選手を育てた経験はない。現役時代に大きな実績もない。大抜てきだった。

湯田強化部長に再建を託した橋本聖子・日本スケート連盟会長

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 「中立的な立場で物事を見ることができて、勉強もしている。めげずに耐えるとなると若い方がいい。そうなると湯田が一番いいと思った」

 こう振り返った橋本会長にとって、ソチ大会の期間中から温めていたプランだった。湯田の強みは企業色がまったくないこと。それほどスピードスケートが盛んとはいえない秋田で育ち、強豪大学からの誘いを断って筑波大に進学。卒業後も修士課程、博士課程に進んで、日本女子体育大の教員になっていた。改革するにはうってつけの人材。そして湯田にも、戸惑いはなかったと言う。

 「驚いたけど、ちゅうちょすることはなかった。みんなが思い切ってできる環境をつくって、先頭を切って開拓するのが強化部長のイメージ。それまで科学的に強くなるためにどうすればいいかを考えていたし、科学だけでは限界があった」

湯田淳

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 正式には4月末に就任したが、橋本会長の指名から、わずか1カ月で再建案を構築した。「誰にも相談していない。誰かと話し合う時間がもったいなかった」。まずは目標を定め、達成するためのシステムを作り上げた。その最大の目玉がナショナルチーム(NT)の常設化だった。

 これまでの日本スピードスケート界は企業や大学などが強化を担い、発展を遂げてきた。だが、湯田が掲げたプランは選手が1年中、NTの一員として活動すること。合宿や大会参加などの活動費は連盟が負担するが、生活費は企業任せ。選手を「取られる」企業チームにすれば「口は出すな、金は出せ」となる。同時進行で強化委員も刷新し、企業色のない顔ぶれになっていた。予想通り、大きな反発があった。「企業名が消える。メリットがない」。そんな声もあった。それでも長野や北海道に出向いて、必要性を訴えた。何とか説得して動きだしたNTだが、もう一つの難問が横たわっていた。指導者がいなかった。

 当時、短距離部門のヘッドコーチこそ米国人のライアン・シマブクロが務めたが、中長距離部門は候補だったコーチとの交渉がまとまらず不在。そんなとき、NTに参加していなかった選手たちを指導していたのが、オランダ人コーチのヨハン・デビットだった。

平昌五輪、女子団体追い抜き決勝で滑走する(右から)高木美、佐藤、高木菜(田中久雄撮影)

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 日本屈指の企業チーム・日本電産サンキョー。ソチ大会後、連盟と同じように再建へ動いていた今村俊明監督は「躍進したオランダに、とにかく入り込もうと思った」と選手の留学先を探していた。そこでソチ大会のオランダ選手をサポートしていたデビットコーチに目を付け、会員制交流サイト(SNS)で接触。高木菜那やウイリアムソン師円らを派遣すると、飛躍的な成長を遂げた。そしてデビットコーチが所属していたチームは経営難もあって15(平成27)年3月末に解散すると、湯田自らが招聘(しょうへい)に乗り出した。NTにとっては偶然と幸運が重なってヘッドコーチに就任。優秀な指導者を手に入れたことで、一気に道が開けたのである。

 「コーチ哲学に引かれたし、何よりヨハンには情熱があった。ヘッドコーチは全権。とにかくやりやすい環境を整えようと思っていた」と湯田。デビットコーチは期待通りにNTを強化した。創設3年目には日本電産サンキョーのメンバーも加わって、お互いが切磋琢磨(せっさたくま)した。最後まで小平奈緒(相沢病院)ら一部選手は加わらなかったが、湯田は「NTがすべてではない。(ライバルとなる)小平選手の存在は大きかった」。たとえNTに参加しなくても、連盟の強化費は、ランクに応じて割り当てていた。

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 平昌五輪では金3、銀2、銅1。4年前に掲げた金1個を含むメダル総数4個の目標は達成した。橋本会長はこの4年間を振り返り、「よく耐えた。耐えれば成功すると思っていた」と言う。

 「常に発展させること。充実した強化システムをつくりあげること」。これが4年前に橋本会長から受けた命令だ。忠実に守り続ける湯田は今年4月、22年の北京五輪に向けて、NTとは別のサブトップ層を集めたディベロップメントチームを創設。NTで培ったノウハウを基に、選手層とコーチ陣の層を厚くするべく新たな挑戦を開始した。日本スピードスケート界を再建した仕掛け人は、平成の世が終わっても、歩みを止めるつもりはない。 (兼田康次)

 ▼湯田淳(ゆだ・じゅん) 1972(昭和47)年7月31日生まれ、秋田市出身の46歳。小学2年からスケートを始め、秋田高を経て筑波大に進学。大学3年時の学生スプリント3位。同大大学院に進学後は日本シャクリー所属選手として27歳まで現役だった。引退後の2000年から日本スケート連盟入りし、07年から科学班、09年から強化委員、14年から強化部長に就任した。一方で07年から日本女子体育大教員(15年から教授)を務めている。専門分野はスポーツバイオメカニクス。

(上)長野五輪、スピードスケート男子500メートルを制しガッツポーズの清水宏保(1998年、長野市のエムウェーブで) (下)金メダルを手に笑顔

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【平成名場面】清水日本初の金メダル

 ▼1998年長野大会の清水宏保(500メートル男子)

 当時の世界記録保持者だった清水は大会3日目の1回目で五輪新の35秒76でトップに立つと、同4日目の2回目も五輪新の35秒59で完勝。長野大会の日本人金メダル第1号になるとともに、日本スピードスケート界初の金メダルをもたらした。爆発的なスタートダッシュが武器だった清水は1000メートル男子でも銅メダルを獲得した。

 

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