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【スポーツ史 平成物語】

あの時、伊藤みどりが跳んだから 羽生に続くフィギュア大国への礎

2018年10月23日 紙面から

平昌五輪の男子金銀コンビ、羽生結弦(左)と宇野昌磨(田中久雄撮影)

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第5部 冬季五輪編(1)

 金4、銀5、銅4…。日本が史上最多のメダルラッシュに沸いた今年2月の平昌冬季五輪。今回のスポーツ史「平成物語」は、そんな冬の祭典にまつわるドラマを取り上げる。第1回は1992(平成4)年アルベールビル大会で、日本フィギュア界に最初のメダルをもたらした伊藤みどり(49)。平昌大会で男子の羽生結弦(23)=ANA=と宇野昌磨(20)=トヨタ自動車、中京大=がワンツーフィニッシュを決めるなど、いまや「フィギュア大国」となっている日本だが、女子で世界初となるトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を成功させ、そのパイオニア的役割を果たしたのが名古屋で生まれ育った当時22歳の天才スケーターだった。 (敬称略)

 どんどん血の気が引いていくのを今でも覚えている。アルベールビル大会オリジナルプログラム(OP)=現在のショートプログラム=が行われた1992年2月19日、伊藤は絶望のどん底にいた。朝の練習でトリプルアクセルの成功は何とゼロ。何度跳んでも失敗した。体調が悪いわけでも、ケガをしているわけでもない。仕方なく難度を下げて、3回転ルッツに変えた。だが、それも本番で失敗した。まさかの4位発進。演技を終え、時間を費やして心を整えると、待ち構える報道陣に頭を下げた。

現役時代を笑顔で振り返る伊藤みどりさん=北九州市内で(兼田康次撮影)

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 「待たせてごめんなさい、失敗してごめんなさい、ルッツに変えてごめんなさい、いろんな意味のごめんなさいが含まれていました。これで金メダルはなくなったと思った。日本に帰れない。どうしようって」

 現在は故郷を離れ、夫と2人で北九州市に住む伊藤は、当時をこう振り返った。現在の得点方法と違い、当時は順位点。OP4位の時点で自力でOP1位のヤマグチ(米国)を抜けなくなった。そして中1日で迎えたフリー当日。「切り替えられなかった」と冒頭の3回転ルッツ−3回転トーループの連続ジャンプは2回転−3回転に。続くトリプルアクセルは転倒した。後がなくなった3本目、3回転フリップ−2回転トーループの連続ジャンプを決めて、われに返ったという。

 「あそこで落ち着きました。ハッとした。ここから悔いの残らない演技をするには、アクセルをやるしかないと思った」

 約4分間に及んだ演技の残り約50秒、五輪では史上初となる女子のトリプルアクセルを鮮やかに決めた。フリーは2位。OP、フリーともに1位のヤマグチにはかなわなかったが、日本フィギュア界初のメダルとなる銀メダルをもたらした。

アルベールビル五輪でトリプルアクセルを決め、笑顔を見せる伊藤みどり=92年2月(共同)

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 トリプルアクセル。今でも女子の成功者が少ない大技は、伊藤の代名詞だった。初めて五輪に出場した88(昭和63)年のカルガリー大会で5位に終わると、「トリプルアクセルを世界で決めたい」と18歳からの再挑戦を決断。実は15歳のときにも成功させていたが、練習中に骨折して断念した。そんな経緯もあったから、3カ月後にあっさり成功した。そして翌シーズンの地元・名古屋の試合で女子として世界初成功。89(平成元)年の世界選手権(パリ)でも成功させて世界一に輝いた。ただ、このころから伊藤のフィギュアに対する気持ちが微妙に変化していた。

 90(平成2)年7月には苦手だった規定(コンパルソリー)がなくなり、競技はOPとフリーで争われることになった。追い風になるはずだったが、結果は違った。アルベールビル大会前年の91(平成3)年世界選手権(ミュンヘン)は転倒などが響いて4位に終わり、期待された最大3の枠取りに失敗。それでも翌五輪シーズンはプレ五輪(ラリック杯)でヤマグチを抑えて優勝するなど国際大会2連勝。圧倒的な力を誇っていたが、本番でつまずいた。

 「あのころからプレッシャーに弱くなった。昔は猿だ、猿だと言われていたけど、人間になってプレッシャーを感じるようになった。いつしか五輪が義務になっていた。カルガリーのときは、本当に五輪を楽しんだけど、アルベールビルは自分で必要以上にプレッシャーをかけていた。あの大会は『30点』です」

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 92年のアルベールビル大会から今年の平昌大会まで、日本フィギュア界は金3つ、銀3つ、銅1つのメダルを獲得している。羽生の連覇は記憶に新しいが、羽生が所属するANAスケート部の城田憲子監督は、アルベールビル大会時は日本スケート連盟の強化担当者。「後にも先にもあんな天才を見たことがない」と振り返ると、当時、10年計画があったことを明かした。

 「すべてはアルベールビルで金を取らせるためだったんです」と城田。10歳だった伊藤の才能にほれ込むと、22歳で迎えるアルベールビル大会に向けて動きだした。84(昭和59)年の世界ジュニアを札幌に、翌85年の世界選手権は東京に誘致した。いずれも当時アジアでの開催は異例中の異例だったが、そこまでして金の卵に経験を積ませたかったと言う。だが、結果として最大目標も含めて思惑通りにはならず、大きなプレッシャーに押しつぶされた。

 「たった一人の天才の力に頼るのではなく、日本の層を厚くしなければならない」。城田は著書「日本フィギュアスケート 金メダルへの挑戦」(新潮社)でこう記している。伊藤の教訓を胸に、92年夏から日本各地の有望な小学生を集めた長野・野辺山での強化合宿を実施。さらに幼少時から国際大会に派遣することで、日本全体のレベルは上がった。平昌大会で日本男子が金と銀を獲得したことは偶然ではないはずだ。

伊藤みどりさん(左)と山田満知子コーチ(共同)

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 そして、伊藤と二人三脚で世界と戦った山田満知子コーチもまた、経験や教訓を生かして浅田真央や宇野らを輩出。現在もグランプリ東海クラブで指導する名コーチは「あのときはガムシャラだった。そこで勉強したことが浅田さんとか(村上)佳菜子、昌磨とかに生かされている。みどりがいなければ今の私はない。本当に感謝している」と言う。

 冬になれば北九州市のリンクで初心者を指導し、選手としても今年はドイツでの国際アダルト競技会に出場した伊藤。羽生が国民栄誉賞を受賞した話題になると、「いろんな人の礎があって、今のフィギュア界がある。すべてがないと羽生君の国民栄誉賞まではつながらない。私もその礎の一人になれたと思うとうれしい」。日本フィギュア界の夜明けをもたらした天才スケーターは、昔と変わらぬ笑顔になっていた。 (兼田康次)

 ▼伊藤みどり(いとう・みどり) 1969(昭和44)年8月13日生まれ、名古屋市出身の49歳。145センチ。4歳時に名古屋スポーツセンターでスケートを始め、山田満知子コーチに師事する。東海女子高(現東海学園高)から東海学園女子短大(現東海学園大)を経てプリンスホテルに所属した。カルガリー五輪5位、アルベールビル五輪銀。全日本選手権は8連覇を含む通算9度の優勝。92年に引退し、95年に一時復帰したが、96年に再び引退した。98年の長野五輪では聖火の点灯者を務めた。

涙を流す浅田真央(2014年、内山田正夫撮影)

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【平成名場面】真央ソチ伝説のフリー

 ▼2014年ソチ大会の浅田真央

 バンクーバー五輪の銀メダリストが2度目の五輪に挑んだが、ショートプログラム(SP)は転倒などが響いてまさかの16位。だが、翌日のフリーではトリプルアクセルを含むすべてのジャンプで着氷し自己ベストの142.71点。演技後は涙があふれた。結局フリー3位の6位でメダルを逃したが、日本中の感動を呼んだ。

 

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