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【スポーツ史 平成物語】

箱根駅伝の国民的人気 仁義とプライドが高めた

2018年9月19日 紙面から

昭和64年1月2日、日本テレビが初めて全区間完全生中継をした際の東京・大手町のスタート風景。これが昭和最後の大会となった。

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第4部 (1)大学駅伝

 まさに平成とともに成長し、正月の一大風物詩となった東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)は1987(昭和62)年に日本テレビによる中継が始まり、平成を目の前にした89(昭和64)年に全区間完全生中継に突入した。今や全国的な人気を博す「怪物番組」。その生みの親でもある当時の日本テレビ番組プロデューサーが明かした箱根駅伝中継秘話とは−。 (敬称略)

 第1回大会から98年、回数にして94回を誇る箱根駅伝。大きな転機となったのは間違いなく87(昭和62)年の第63回大会だった。この大会から日本テレビが中継を開始。同局で番組プロデューサーを務めていた坂田信久(77)は「当時の日本テレビは視聴率で3番目、4番目。何とか起爆剤を求めていた」と振り返る。

 その2〜3年前から東京国際マラソンや横浜国際女子駅伝で力をつけてきた制作現場から挙がったのが「今度は箱根をやってみようとなった」との声。役員会を3度目にしてやっと通ったが「失敗したら責任を取れるんだろうな」と言われていたという。

2区で初の外国人留学生・山梨学院大のオツオリ(右)が7人抜きの快走。2006年、母国ケニアで事故死した

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 そうして始めた箱根駅伝の中継。だが当時の技術力では全区間完全生中継は厳しく、途中に別番組を挟む4部構成だった。とりわけ難関だったのは選手と同じく5区、6区の箱根山中。電波を飛ばすのが難しく、ヘリコプターで対応したが悪天候になればヘリは飛べない。幸いにして大過なく中継できたというが、綱渡りだったのは想像に難くない。

 実は中継を始めるにあたって坂田には仁義とプライドがあった。箱根駅伝は79(昭和54)年から86(同61)年までテレビ東京が録画のダイジェストとゴールシーンの生中継という形で放送していた。「テレ東と同じでは申し訳ないし、自分にもプライドがあった。とにかく『箱根の山を克服して初めて(成功)だ』と思っていた」と当時の心境を明かす。山をやってこその箱根駅伝だった。

 もちろんプライドだけで電波は飛ばないし、天候も思いをくみ取ってくれるわけではない。中継をするからには技術の穴を埋め、不測の事態に対応しなければならない。そこで生み出されたのが箱根駅伝の歴史を紹介する「今昔物語」だったが、これが思わぬ効果を生み出す。「あくまで中継を穴埋めするための手段だと思っていたけど、涙を流すような話も出てきて、ひょっとするとイベントの価値を高めるものになるかもと思い始めた」。思惑以上に好評を博し、競技の中継と今昔物語が番組の二本柱となって現在にまで至るようになった。

 技術の穴を埋め、数字も取るようになり、次に目指したのが全チームがゴールするまで放送枠を確保すること、そして全区間の中継だった。その思いは3度目となる89年に全区間完全生中継という形で実現する。もっとも89年の正月と言えば、まさに昭和から平成に移り変わるその時。2〜3日に生中継した直後の7日に天皇陛下が崩御。翌8日から平成の幕が開けた。

坂田信久

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 坂田は「もちろん全区間中継できることは願っていたけど、自分たちの力でどうにかなるものではないし、一般の方や視聴者の感情も考えないといけない。何かあったらこうするというプランは立てていた。途中で天皇陛下の訃報が入った場合、テレビは特番になっていたけど、レースは走りだしたらその日のゴールまでは行きましょうということだったと思う」と記憶をたどる。

 結果的に完全生中継を果たし、当初は20%前後で推移していた視聴率も近年はコンスタントに30%(過去最高は03年復路の30.5%)に迫る勢いとなり、正月の風物詩としての立場を確固たるものにしていった。坂田にはその過程で大事にし、後輩にも伝えてきていることが3つあるという。

 「1つは箱根駅伝を放送してあげるのではなく、放送させて頂くという感謝の気持ちを持ち続けること。もう1つはテレビが箱根駅伝を変えてはいけないということ。そしてもう1つが関係者、沿道の応援まで関わった人全ての思いと歴史を背負うこと」

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 当然ながらテレビ中継が始まる前から箱根駅伝は存在し、選手も沿道の観衆もいた。「歴史があり、ずっと応援してきた人がベースにある。だからこそ余計に放送させてもらっているという気持ちを持たないといけない」。実は坂田自身も新人だった64(昭和39)年に第40回大会を取材し、歴史や思い入れを肌で知っていたからこその教訓だった。

 「選手にエールを送り、チームにエールを送る。これも仕事を楽しくする手段。思い入れのある選手が活躍したらうれしいし、無上の楽しみだった。それを全員がずっと続けてきている」。人から人への思いをつなげて30年あまり。番組もまた、目に見えないたすきをつなぎ続けて箱根駅伝の歴史は紡がれてきている。来年1月2日、平成最後となる箱根駅伝の号砲が鳴る。 (川村庸介)

 ▼箱根駅伝の歴史 1920(大正9)年に早大、慶大、明大、東京高等師範学校(現筑波大)が参加して第1回大会が行われ、東京高師が15時間5分16秒で優勝。41年から第2次世界大戦により中断(43年のみ靖国神社と箱根神社往復の鍛錬継走として実施)したが、47年に復活、56年から1月2、3日開催となった。現在は東京・大手町から箱根・芦ノ湖までの10区間217.1キロで行われている。最多優勝は中大の14度。

 ▼坂田信久(さかた・のぶひさ) 1941(昭和16)年2月20日生まれ、富山市出身の77歳。東京教育大(現筑波大)を卒業後の63年に日本テレビに入社し、箱根駅伝のほか、サッカーの全国高校選手権やトヨタ・カップ、横浜国際女子駅伝などのスポーツ番組を立ち上げる。98年にJリーグのV川崎(現東京V)の社長となり、2001年に日本テレビを定年退職後はJリーグ理事、国士舘大教授、Jリーグマッチコミッショナー委員長などを歴任する。

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