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【スポーツ史 平成物語】

男子400メートルリレーのお家芸 磨いてつないだ技と心のバトン

2018年9月1日 紙面から

北京五輪男子400メートルリレー決勝で銅メダルを獲得し、日の丸を手に喜ぶ(左から)塚原、末続、朝原、高平=国家体育場で(谷沢昇司撮影)

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第3部 五輪編(5)

 表彰台への思いを込めたバトンを平成の30年間、世代を超えてずっとつないできた。その先に2つのメダルが輝いた。2008(平成20)年北京五輪、16(平成28)年リオ五輪で世界の韋駄天(いだてん)と互角以上に渡り合い、それぞれ銅メダル、銀メダルを獲得した陸上の男子400メートルリレー日本代表。大きな武器となったお家芸のバトンパスを当事者の証言と共に振り返った。 (文中敬称略)

 陸上競技のリレーで大きなウエートを占めるバトンパス。変革の萌芽(ほうが)は1998(平成10)年にあった。この年、日本はバトンパスの方法を試験的に従来のオーバーハンドパスからアンダーハンドパスに変更。当時は選手で現在は日本陸連で400メートルリレーのオリンピック強化コーチを務める土江寛裕は「見た目がスムーズで可能性を感じたのと、新たな課題があることで選手がバトンに対して考えて取り組むようになった」と述懐する。

 その後、2000(平成12)年のシドニー五輪は再度オーバーハンドパスで臨んだが、ここで転機が訪れる。100メートルで当時日本記録(10秒00)保持者の伊東浩司と同歴代2位(10秒02)の朝原宣治、さらに伸び盛りの末続慎吾らを擁しながらメダルに届かぬ6位。あのメンバーで取れないのなら違う一手を−。個々の走力で劣る日本が世界との差を補うため、また末続のスムーズな走りを生かすために翌年から本格的にアンダーハンドパスへ切り替えた。

北京五輪男子400メートルリレーの銅メダル獲得を報じる2008年8月23日付の中日スポーツ

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 アンダーハンドパスで臨んだ初の五輪となる04(平成16)年アテネ大会。ここで日本は当時の史上最高の成績4位となる。だがメダルにはまたしてもあと一歩、0秒26届かなかった。第1走者を任された土江は「結果的に僕の出遅れがなければというのがあった。取り返しのつかないことをしてしまった」と今でも悔いを残している。だからこそ土江は「自分が戦えなかった、失敗したところを今の選手たちと一緒に間接的に夢を実現したい」と指導者に転身。大学院の研究テーマにもしていたバトンパスのブラッシュアップを進めていった。

 日本のメダル獲得を目指す土江によって導き出されたのが3秒75という数字だった。バトンの受け渡しを認められている20メートルのテークオーバーゾーン(現在はルール改正により30メートル)と前後10メートルの計40メートルを、バトンの受け渡しをしながら3秒75で駆け抜ければメダルに近づくという想定の下、日本代表は北京五輪へ向けバトンパスを磨きに磨いてきた。それまでは目視と感覚でパスの成否などを判断する部分もあったが、そこにタイムという客観的な指標を持ち込んだ土江はその意義をこう説明する。

 「3秒7という数字は1人で走ったら簡単に出る。それをバトンをつなぎながら1人が走り抜けるのに近づけるという発想。スプリンターの基準となる秒速11メートルで40メートルを走ると3秒666という数字になる。3秒70だとハードルが高いが80だと遅いので75にした」。バトンをパスする走りを極限まで通常の走りに近づけ、アンダーハンドのメリットを最大限に生かすための指標だった。

 だが土江は数字だけにこだわっていたわけではない。「日本の武器は『和』。俺を信じて思い切りスタートを切ってほしいから、そのためにも絶対に渡さなきゃいけない、そういう信頼関係ができているかどうか」と言い切る。あくまで数字は指標であり後付け。根底にあったのは脈々と受け継がれてきた思いやりというバトンだった。

リオデジャネイロ五輪男子400メートルリレーで銀メダルを獲得した(左から)山県、飯塚、桐生、ケンブリッジ=リオで(内山田正夫撮影)

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 その意図は実際に走った選手も感じていた。アテネ五輪から3大会連続で第3走者を務めた高平慎士は、バトンを渡しに来る第2走者の末続との間に「両方に思いやりがあるかどうかが大事。そこはすごく突き詰めてきた」と言う。そして渡す相手であるアンカーの朝原に対しては「とにかく走ってくれればいいので、僕が9割バトンパスの技術を担うからあとは出てくださいと。走りに集中してもらった方が絶対に力を発揮できる。そのさじ加減は人間性や競技の取り組み方を踏まえていた」といかに朝原を気持ち良く走らせるかに腐心していた。バトンを渡しさえすれば、朝原なら走ってくれるという信頼感でつながっていた。

 高平は北京五輪でメダルを取れた要因について「全員の思いが同じ方向だった。それに尽きる。自分たちが達成したい目標と応援する側が目指していたのもマッチしていたし、現場のコーチングスタッフも控えの斎藤仁志君もそう」と振り返る。北京五輪の前年に大阪で行われた世界選手権。母国開催の世界大会で兵庫県出身、地元・大阪の企業に所属する朝原に「有終の美となるメダルを」というのは陸上関係者、ファンの悲願でもあった。だが5位で逃し、朝原は現役続行を決断。一世一代の花道を逃した朝原の雪辱、そして飾らせることができなかったメンバーの思いが北京五輪で実を結ぶ。メダルが確定すると朝原はバトンを天高く放り、喜びを爆発させた。

 北京から4年後のロンドン五輪。最年長となっていた高平は意識していたことがあった。「日本代表のDNAをずっと保存しておきたかった。いろいろな人が挑戦やサポートを続けてきたからこそ、今の日本代表の4継(400メートルリレー)がこの位置で戦えている。そういうことを見せてあげるのも4継チームの役割だと考えていた」。そしてロンドン五輪で4位に終わった後、一緒に走ったメンバーに呼び掛けた。「4年後また同じところに戻ってきて、しっかり結果を残そう」と。その中から山県亮太と飯塚翔太の2人が4年後も残り、リオデジャネイロ五輪でジャマイカと真っ向から渡り合って銀メダルを獲得した。日本陸連科学委員会の計測によると、リオ五輪決勝での各区間40メートルの平均タイムは理想に近い3秒76。この数字こそが長年の取り組みの正しさを証明していた。

リオデジャネイロ五輪の男子400メートルリレーで銀メダルを獲得したことを伝える2016年8月21日付の中日スポーツ

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 平成に入って初となるバルセロナ五輪で6位入賞してから始まった男子400メートルリレー。土江は「そこからスタートしているし、ずっとつなぎ続けている。当時の方々もみんな今の活躍を喜んでくれる」と回想する。実はバルセロナの1つ前のソウルからリオまで、4年という五輪の長期スパンにもかかわらず、前回大会の経験者が必ず1人は次大会のメンバーに入っていた。技術に心構え、さらには先人の思いをバトンとしてつないできたからこそ、平成最後の五輪で銀メダルという結果を得ることができた。 (川村庸介)

 400メートルリレーのバトンパスにはオーバーハンドパスとアンダーハンドパスの2種類がある。次走者が腕を肩の上まで上げてバトンを受けるオーバーハンドパスは、目いっぱい伸ばした腕の長さの分だけ利得距離が長くなるという利点がある一方で、次走者が腕を高く上げたまま走るという不自然な動作を余儀なくされるデメリットがある。

 アンダーハンドパスは腕を振りながら走るという通常の動作に近い状態でバトンパスを行えるため、次走者がスムーズに加速できるメリットがある。その半面バトンパスの利得距離は短くなるため、特に前走者はオーバーハンドに比べて長い距離を走る必要がある。

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