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【スポーツ史 平成物語】

女子マラソン4大会連続メダル 小出義雄が敷いた栄光へのレール

2018年8月31日 紙面から

メダルへの思いを語る小出義雄=千葉・佐倉アスリート倶楽部で(武藤健一撮影)

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第3部 五輪編(4)

 平成最初の夏季五輪となった1992(平成4)年のバルセロナ大会。五輪史に残る日本女子マラソン界の偉業は、この大会での有森裕子の銀メダル獲得から始まった。有森は96(平成8)年アトランタ大会でも銅を獲得。続く2000(同12)年シドニー大会で、ついに高橋尚子が日本マラソン界悲願の金メダルを獲得すると、4年後の04(同16)年アテネ大会では、野口みずきが金メダルで続いた。実に五輪4大会で、日本女子マラソンは途切れることなく世界のトップを走り続けたのだ。 (文中敬称略)

 1992年夏、バルセロナ五輪は灼熱(しゃくねつ)のもとで開かれた。女子マラソンが行われたのは8月1日(日本時間8月2日)。港町を午後6時半にスタートし、モンジュイクの丘にあるナショナルスタジアムを目指す片道コースだった。だが、名勝地を巡る観光コースの前触れとは名ばかり。酷暑を避けてナイトレースとなったが、スタート直前の気温は32度。これに、五輪史上最も過酷と言われる、胸突き八丁のモンジュイクの上り坂が選手たちに襲いかかった。

 36キロ。有森が宿敵エゴロワ(EUN国家共同体=現ロシア)に追いついて始まった抜きつ抜かれつの死闘は、まさにこの“魔の上り坂”で延々と4キロ続き、最後は一転下ってゴールへ向かう、合わせて6キロでの一騎打ちとなったのである。

1992年バルセロナ五輪女子マラソンで2位に入り、日の丸と花束を持ってスタンドの歓声に笑顔を見せる有森裕子=バルセロナの五輪スタジアムで(宮山茂男撮影)

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 日がとっぷり暮れた9時頃、カクテル光線に照らし出されて最初に競技場に現れたのはエゴロワ、少し遅れてピッチ走法の有森が続いた。2時間32分41秒で優勝を決めたエゴロワに、有森はわずか8秒遅れて銀メダルとなった。

 時に有森裕子、25歳。教えた小出義雄、53歳。五輪の扉を大きくこじ開けた師弟には、初々しく、ほほ笑ましいエピソードが残る。有森は強度の近視。それがレース当日の朝、右目用のコンタクトレンズを無くしていた。「見えないよりはまし」と、片方のレンズだけでナイトレースを走っていた。小出は、バルセロナ入りしてから「原因不明の腰痛」に襲われ、這(は)ったまま、宿舎で給水用ボトルを用意した。

 まだある。「お前が死ぬ気で金メダルを目指すなら、オレも好きなモノをやめる」と、小出は禁煙を続けていた。レースが終わったら吸おうと、大好きなショートホープを1カートン、バッグにしのばせての現地入り。だが、これが有森に知れるところとなり「メダルを取るまで待ってください」と没収の憂き目にあった。だが、話はこれで終わらない。

 有森は、1個をランニングパンツの腰に縫い付け、レースに臨んでいたのだ。だが「監督に思い切り吸ってもらう」はずのショートホープは、激闘の汗にまみれ、グシャグシャになっていた。「監督、どうぞ」と顔をくしゃくしゃにして渡す有森。「火がつかないよー」と、おどけながら、小出のまぶたもまた光っていた。歴史を作ったショートホープの小箱はいま、千葉県佐倉市にある小出家の神棚に祭られている。

1996年アトランタ五輪の表彰式で、銅メダルを手に喜びいっぱいの有森裕子=アトランタの五輪スタジアムで(田中健撮影)

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 偉業の始まりは、かつての偉人を歴史のかなたから掘り起こすことにもなった。人見絹枝は1928(昭和3)年アムステルダム五輪の800メートルで、日本初の女子メダリスト(銀)となったが、有森の銀メダルは64年ぶりに日本女性陸上選手が獲得した五輪のメダルになったのである。くしくも、人見が快挙を演じたのも8月2日(有森は日本時間)だった。そして、郷里も同じ岡山県である。さらに言えば、人見の命日もまた8月2日なのである。

 小出はなつかしそうに言う。「最初はマネジャー候補。それが、有森は努力にかけては天才だった。お腹(なか)いっぱいの馬は、河原に連れて行っても水に見向きもしない。だけど、彼女はゴクゴク飲むんだ。全てを吸収してやろうと、世界一の努力家になった」。

 足底筋膜炎、メダルの後の生き方などを模索、葛藤の末に、再び有森は4年後、アトランタ五輪で快挙を成し遂げる。銅メダルを決めて涙を流しながら言った。「初めて自分で自分をほめたいと思います」

シドニー五輪女子マラソンで優勝し、金メダルを手に喜びの高橋尚子=2000年9月24日、五輪スタジアムで(道家正幸撮影)

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 敷かれたレールは堅固だった。同じ小出門下の後輩、高橋尚子(Qちゃん)が、4年後の00年シドニーで文字通り突っ走った。「Qちゃんも、初めはただの押しかけ入門。しかし、夢は有森と同じように持っていた。素質に目覚め、もう、これ以上は無理という世界一の努力で金メダルを取った。金を取るには、そのための練習が要る。あれは、当然の結果だった」。標高2000メートル級で行うのが常識とされる高地トレーニングだが、師弟が挑んだのは、最高3650メートルでの猛烈なトレーニングだった。シドニーの翌年のベルリン国際で2時間19分46秒と、世界で初めて「20分の壁」を破る女性第1号となったのである。

 04年、マラソンの発祥の地、アテネでも日本女性は輝いた。高橋尚子の背中を追い続けた野口みずきだったが、入れ替わるように日本のエースへと成長を遂げた。8月、気温が30度を超えたアテネ路を、後半独走の圧勝劇だった。

 栄光のメダルリレーは、しかし、ここで途切れた。華やかなお祭りの後の静寂は寂しい。小出義雄は言う。

アテネ五輪女子マラソンで金メダルを獲得、日の丸を掲げながら笑顔を見せる野口みずき=2004年8月22日、パナシナイコ競技場で(道家正幸撮影)

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 「苦難、困難はいつでも、いっぱい来る。それは、乗り切るためにあるんだ。苦難、困難があるのは生きている証拠。乗り切ったら喜びは大きいよ。1人では無理、みんなでまた、メダルを目指す夢を持つことが大事なんだ」

 「2020東京」のマスコット2体に名前が付いた。オリンピックは「ミライトワ」で素晴らしい未来が永遠に続きますように、の願いが込められている。パラリンピックの「ソメイティ」は、桜のソメイヨシノと「so mighty(力強さ)」から造語し、たくましい桜を表しているのだという。平成の女子マラソンを思いながら、新しくやって来る年号の時代に思いを馳(は)せた。たくましい桜たちが、また、永遠に語り継がれるような素晴らしい未来を生み出してくれるのだろうかと−。 (満薗文博)

 ▼小出義雄(こいで・よしお) 1939(昭和14)年4月15日、千葉県佐倉市生まれの79歳。順天堂大学卒業。千葉県立長生高校、同佐倉高校、市立船橋高校教諭を経て、実業団のリクルート、積水化学で特に女子選手を指導した。現在、佐倉アスリート倶楽部代表として、ユニバーサルエンターテインメントから委託を受け指導。有森裕子、高橋尚子、鈴木博美(97年アテネ世界選手権女子マラソン金メダル)など、多くの世界的な選手を育てた。

(左)有森裕子のバルセロナ五輪女子マラソン銀メダルを伝える1992年8月3日付の中日スポーツ (右)高橋尚子のシドニー五輪女子マラソン金メダルを伝える2000年9月25日付の中日スポーツ

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