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【スポーツ史 平成物語】

宇津木妙子−宇津木麗華−上野由岐子 女子ソフト金を紡いだ3代の魂

2018年8月30日 紙面から

(左から)宇津木妙子、上野由岐子、宇津木麗華。日本女子ソフトボールをけん引する3人=2004年5月13日、東京都港区で(笠原和則撮影)

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第3部 五輪編(3)

 平成を華やかに彩り、やがて五輪競技として存亡の危機に立たされたのが女子ソフトボールだ。正式種目となった1996(平成8)年アトランタ大会で日本は4位。00(同12)年シドニー大会が銀、04(同16)年アテネ大会は銅。そしてついに08(同20)年、北京で金に登り詰めた。宇津木妙子65歳。宇津木麗華55歳。上野由岐子36歳。年齢を超え、平成のソフトボールを支えた3人の女性。そこにあったのは、人生の数奇と、信頼関係だった。 (文中敬称略)

 女子ソフトボールの世界選手権は1965(昭和40)年から始まった。“女性版野球”は野球発祥の地、米国が圧倒的に強く、現在も米国を中心に回っているといってもいい。平成に入った1990(平成2)年からも2010(平成22)年まで6連覇した。それにくさびを打ち込んだのが日本だった。12(平成24)、14(平成26)年は米国を破って連覇した。

 オリンピックは96(平成8)年アトランタから04(平成16)年アテネにかけ米国が3連覇。08(平成20)年北京で、ついに日本が米国を破って頂点に立った。シドニー、アテネでヘッドコーチ(以下、監督と表記)として日本代表を率いたのが宇津木妙子だった。北京では斎藤春香がヘッドコーチとして金メダル監督となったが、そこまで妙子と宇津木麗華が築いた礎は大きかった。

決勝 日本−米国 先発して力投する上野=2008年8月21日、豊台ソフトボール場で(朝倉豊撮影)

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 さて、現在の日本代表の監督は宇津木麗華である。姓が宇津木で、妙子の養女と思っている人もいるが、そうではない。元は中国人、任彦麗(ニン・エンリ)だ。妙子と彦麗の出会いは、彦麗が15歳の時。中国に遠征した現役当時の妙子のプレーに魅了されたのが最初だった。彦麗は18歳の時、日本遠征で初めて妙子と話す機会を得たが、あこがれは増すばかりだったという。

 一方で、妙子は、非凡な才能を見抜く。交流を続けて、88(昭和63)年に彦麗は25歳で本格来日。妙子総監督の日立高崎(当時)に初めは臨時職員の待遇で入門した。数年、埼玉県の妙子宅に住み、2人で高崎まで車で通う日々を続けた。妙子の母親、恵美さんの愛情にも支えられ、めざましい活躍を見せた彦麗は、その後正式社員として採用された。

 94(平成6)年に日本リーグで三冠王となり、翌95年には、32歳にして日本の国籍取得を果たした。宇津木家に「私が宇津木姓を有名にしますから」と頼み込み、日本名・宇津木麗華が誕生した。その間には、群馬で短大も卒業している。妙子のプレー、指導法を尊敬し続け、勉学も怠らなかったのである。

 所属先、日本代表で、妙子監督、主砲麗華で過ごした日々は長い。妙子イズムは、あこがれ、尊敬を忘れなかった麗華に引き継がれた。妙子流「技術力」「人間力」を鍛える指導者としての道は、中国からやって来た麗華が引き継いだ。

 ソフトボールが初めて五輪に採用された96(平成8)年アトランタ大会は、日本代表に選出されながら、市民権を得てからの期間が不足。五輪憲章の国籍条項に触れ、出場を断念した。だが00(平成12)年シドニーは、宇津木ジャパンの主将、主砲として、3本の本塁打を放った。決勝では、米国に1−2で敗れたが、日本に銀メダルをもたらした。

決勝で米国を破り金メダルを獲得、マウンドに駆け寄る日本ナイン。右後方は上野(鵜飼一徳撮影)

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 03(平成16)年に妙子は総監督に就任。麗華に高崎の監督(選手兼任)を譲り、代表監督に重きを置くことになった。04(平成16)年のアテネ五輪は、妙子監督のもと、主砲、マネジャー役としてチームを支えて銅メダル。この大会で初めて五輪のマウンドを踏んだのが、高崎で指導する22歳の上野由岐子だった。

 アテネが終わると、麗華は選手としてのユニホームを脱ぎ、高崎の専任監督となった。妙子総監督とともに、上野ら後進の育成に尽力する側に回ったのだ。シドニーの銀から、アテネでは銅。メダルの色が一歩後退した原因の1つとして、麗華の分析は「投手力」不足にあった。

 投手力の重要性はかねて考えていたこと。上野が九州女子高(現福岡大付属若葉高)時代から、麗華はその非凡な才能に目を付けていた。これに応えるように、上野もまた高崎へとやって来た。麗華の情熱は、上野に伝わる。174センチ、均整の取れた体格から繰り出されるストレートは、やがてMAX120キロ超えとなり「世界最速右腕」の称号が与えられるまでになった。

 実は、麗華には大きな夢があった。それは、上野への情熱の大きさと無縁ではなかった。銀−銅ときた五輪のメダルを、08(平成20)年北京で「金」にしたい思いが強く渦巻いていたのである。「自分が育った中国で、自分が育てた上野が躍動する。そして、宿敵米国から金メダルを奪取する」という願望だった。

金メダルを手に笑顔の上野=2008年8月21日、豊台ソフトボール場で(鵜飼一徳撮影)

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 8月の北京で夢は成った。そして、トーナメント戦の3試合を1人で投げきった上野の球数は「上野の413球」として伝説になった。現地で、解説者席から「教え子」の熱闘を見た妙子は「文字通り、血のにじむ投球でした」と振り返る。

 すでに、この年の7月、IOC(国際オリンピック委員会)は12(平成24)年ロンドン大会でのソフトボール除外を決めていた。これが悲願の金へのラストチャンスとなるかもしれない。そんな状況下、壮絶な死闘に麗華と上野は最高の答えを出してみせた。

 12年のロンドンに続き、16(平成28)年リオでもソフトボールの五輪種目復活は見送られた。だが、彼女たちの気持ちは切れてはいない。上野は五輪からの競技除外、さらに故障にも見舞われ、一時、表舞台から消えた。それが再び、豪腕とともに表舞台で踏ん張っている。関係者によれば、妙子、麗華の懸命の励ましが、36歳となったエースの「2020東京」へのモチベーションになっているという。宇津木妙子−宇津木麗華−上野由岐子。平成を彩った女たちの物語には、まだ続編がある。 (満薗文博)

女子ソフトボールの金メダル獲得を報じる2008年8月22日付の中日スポーツ

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▼上野の413球 08年の北京五輪で上野は8月20日の準決勝で米国に延長9回に1−4で敗れたものの完投。その日のうちに行われたオーストラリアとの3位決定戦でも延長12回を完投し、4−3のサヨナラ勝ちに貢献した。上野はさらに翌21日行われた米国との決勝戦でも7回を完投して3−1で破り、悲願の金メダル獲得に貢献。2日間を通じて3試合、計413球を1人で投げ抜いた。その姿は多くの国民の感動を呼び、「上野の413球」は流行語大賞にもノミネートされ、審査員特別賞を受賞した。

 

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