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【スポーツ史 平成物語】

野村忠宏、必殺の背負い投げで逆転 柔道人生が変わった5分間

2018年8月29日 紙面から

インタビューに答える野村忠宏さん=奈良県天理市の天理大で(いずれも黒田淳一撮影)

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第3部 五輪編(2)

 あまたのメダリストを輩出しているお家芸の「柔道」にあって、実績で群を抜くのが男子60キロ級で1996(平成8)年のアトランタから2000(平成12)年シドニー、04(平成16)年アテネと五輪3連覇した野村忠宏(43)だ。必殺の背負い投げを武器に、日本男子では唯一の偉業を成し遂げた野村の出発点は、「柔道人生を変えた」と振り返るアトランタでの1試合だった。 (文中敬称略)

 野村の五輪不敗伝説は、世紀の大逆転劇から始まった。前年の世界選手権を制したオジェギン(ロシア)と相対したアトランタ五輪3回戦。開始早々に袖釣り込み腰、肩車で立て続けに有効を奪われる。「ものすごく強かった。歯が立たなかった。何回も体を浮かされて、会場全体が諦めムードになるくらい差があった」。一時は敗色濃厚と思われた。

 技は切れるが、勝負師としては疑問符がつく。それが当時21歳の若武者への一般的な見方だった。「『集中力に欠ける。勝負を途中であきらめる』と言われていた。だからアトランタでは常に攻撃的な柔道をすると自分に言い聞かせていた。最初で最後の五輪、そう思っていましたから」。逆境に立たされても野村には信念があった。

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 残り15秒。後に野村の代名詞と呼ばれる背負い投げでオジェギンを畳にたたきつけ、技ありを奪った。「5分という試合の中で自分自身が大きく変わって、成長した。そう感じた試合はあの試合だけ」。濃密な5分間が野村の血肉となった。

 決勝では直前に、国民的人気を誇った女子48キロ級の谷(旧姓田村)亮子が敗戦。大勢の日本人ファンで埋まった会場は静まり返った。「本当に異様だった。でも『ヤワラちゃんでも負けるんだ。これが五輪なんだ』と冷静に思っている自分がいた。これで勝ったらオレがスターだなと」。イタリア選手に背負い投げで一本勝ち。歓喜の雄たけびを上げた。

 五輪前はほとんど無名の存在だった。柔道男子のアトランタ代表は92(平成4)年バルセロナ五輪金の古賀稔彦、吉田秀彦のコンビを筆頭に、小川直也、中村佳央、行成、兼三の3兄弟と役者ぞろい。「五輪前の公開取材日を覚えている。明らかに自分の周りの記者の数が少なかった」と述懐する。

野村忠宏のアトランタ五輪金メダル獲得を報じる1996年7月28日付の中日スポーツ

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 出発時の成田空港でのエピソードはよく知られている。「もみくちゃ状態の中、カメラを持った方に突き飛ばされた。野村という存在に気付かれずにね。心底カチンときました。『オレだって代表だ。覚えとけよ』」と反骨心を燃やした。戦前の低評価も、五輪本番での苦戦も、すべてをひっくり返して金メダルのドラマが完成した。

 その後の歩みは順風満帆だったわけではない。アトランタ後、金メダリストがまさかの就職難に見舞われた。「スカウトゼロでした。大人の事情だったのか」と野村は苦笑する。紆余(うよ)曲折を経てミキハウス入りし、シドニー五輪では圧倒的な強さで連覇を達成。一度は競技を離れて米国留学も経験した。2002(平成14)年秋に復帰し、ブランクの影響で勝てない苦しさを味わいながらも、最終的にはアテネで3連覇を果たした。

 「4年間のうち競技が行われる『1日』に最高の自分を作り上げるのは、生半可ではない。肉体も、心も、環境も、ライバルの状況も刻々と変わる。同じことをしていたら勝てない。進化しないと。苦しいけど刺激的な挑戦だった。モチベーションはそこら中にあった」

 アトランタで同日に決勝を戦った谷亮子との不思議な縁はシドニー、アテネでも同じように続いた。「彼女は柔道界一のスター。国民の期待がすべて彼女にいったのは、特に初めてのアトランタではラッキーだった」と野村。一方で、勝っても負けても谷に傾倒したメディアには「金メダルを取っても新聞の1面に載らなかったのはショックだった。地味なチャンピオンです」と苦笑い。谷亮子という人気者の陰でわが道をひた走った。

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 最後の10年間はスポットライトを浴びたアテネまでとは一転した。07(平成19)年5月に右膝前十字靱帯(じんたい)を断裂。翌年の北京五輪代表を逃した。右肩、左膝も手術を強いられた。現役終盤は満足に畳に上がることすらかなわなかったが、?歳を超えても現役にこだわった。「とことん柔道と向き合おうと。昔は『絶頂期に格好良くやめたい』と思っていたんだけどね」

 ラストマッチは15(平成27)年8月の全日本実業個人選手権。3回戦で無名の選手に一本負けすると、観客は敗者の野村に盛大な拍手を送った。「平成の30年間でクソ弱かった自分がチャンピオンになり、最後はボロボロになった」。オジェギン戦をきっかけに世界の頂点に君臨した天才柔道家は、刀折れ矢尽きて現役を退く道を選んだ。 (木村尚公)

 ▼野村忠宏(のむら・ただひろ) 1974(昭和49)年12月10日生まれ、奈良県広陵町出身の43歳。柔道60キロ級。164センチ。3歳で柔道を始め、中学、高校時代は目立った成績を残せなかったが、天理大で徐々に頭角を現す。96年の全日本体重別選手権で初優勝し、アトランタ五輪金メダル。97年世界選手権優勝を経て、2000年シドニー五輪、04年アテネ五輪も制した。五輪では3大会で15戦無敗。うち12試合で一本勝ちを収めた。五輪3連覇は全競技を通じてアジア初。叔父はミュンヘン五輪の中軽量級金メダリストの野村豊和。

インタビューに答える野村基次さん=奈良県広陵町で

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父・基次さんが明かす技のルーツ

 野村を世界のトップへと導いた十八番の「背負い投げ」は、1964(昭和39)年東京五輪中量級金メダリストの岡野功がルーツだった。奈良県広陵町の実家で柔道場を開き、高校柔道界の名門・天理高で監督も務めた父の基次(75)が明かした。

 基次は高校時代に岡野と対戦した際、強さと柔道スタイルに衝撃を受けたという。「体の小さい選手はこういう柔道をしないと勝てないと思った。右からは背負い、左からは一本背負いで攻めていた」

 岡野は体重無差別の全日本選手権でも優勝している。小よく大を制す−。その極意を「背負い投げ」だと見た。

 基次は、背負い投げを弟で72(昭和47)年ミュンヘン五輪軽中量級金メダリストの豊和に教え、さらに野村に伝授した。野村は中学時代でも体重40キロ台と小さかったが、父から教わった背負い投げを磨くことで次第に力をつけていった。

 野村は「アトランタからシドニー、アテネと自分の柔道はどんどん変わっていったけど、唯一変わらなかったのが『背負い投げ』だった」。五輪などの大事な試合の際、基次はいつも筆でしたためた激励の手紙を野村に手渡した。偉業の裏側には、心技体を支えた父の手助けがあった。

 

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