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【スポーツ史 平成物語】

「金なんて取らなければ・・・」 14歳シンデレラ 岩崎恭子の苦悩

2018年8月28日 紙面から

記者の質問に答える岩崎恭子さん=東京都中央区で(武藤健一撮影)

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第3部 五輪編(1)

 新元号で迎える東京五輪まであと2年。今回のスポーツ史「平成物語」は夏季オリンピックにスポットを当てる。平成最初の五輪となった1992(平成4)年のバルセロナ大会。「今まで生きてきた中で一番幸せ」。こんな名セリフとともに一人の少女が一躍、国民的ヒロインとなった。競泳女子200メートル平泳ぎを制した岩崎恭子は当時14歳と6日。日本五輪史上最年少の金メダリストの誕生を日本中が祝福した。だが、この快挙によって彼女を取り巻く世界は一変した。夢のような栄光。その後に待ち受けていた苦悩…。第1回は時代に翻弄された「平成のシンデレラ」の、もう一つの物語を紹介する。 (文中敬称略)

 それはうそ偽りのない本音だった。インタビューが始まってからの詳しいやりとりは、映像を見返すまでうろ覚えに近かった。でもインタビュアーに「金メダルです。最後に一言」と促され、話した言葉だけは当時からしっかり覚えている。「今まで生きてきた中で一番幸せです」。素直に口をついて出た一言。それが今後の人生に終始付きまとうなど、当時まだ14歳の少女には想像できなかった。

 岩崎は決戦の地バルセロナ到着と同時に、五輪の女神から祝福されていたのかもしれない。何しろ目にするもの、耳にするものすべてがプラスに作用するように感じてならなかった。

 「初めてモンジュイックの丘の上にあるプールに行ったら、50メートルがすごく短く感じた。すごく調子が良かったというのもあるけど、あんなに大きな観客席があるプールを見たのは初めてだったから。オリンピックのプール会場はすり鉢状になっていて上を見れば青い空がある景色。その効果もあってか、50メートルの距離が短く感じました」

岩崎恭子の金メダル獲得を報じる1992年7月29日付の中日スポーツ

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 五輪開幕前の注目は男子が林享(あきら)、女子は千葉すず。常にカメラに追われ、ひっきりなしに取材を受ける2人に対し、岩崎には地元紙が時折コメントを取りにくる程度だった。本人も「自己ベストタイムが出たら決勝に残るかも」と思っていた程度の選手で重圧とは無縁。だから当時の世界記録保持者で金メダル最有力候補のアニタ・ノール(米国)と対面しても気後れすることはなかった。五輪前のベストタイムで5秒73の大差はあったが、逆に彼女の言葉としぐさから余裕すら生まれた。

 「決勝の招集所に集まるとノールから『グッドラック』(幸運を願う)と声をかけられました。これは予選ではなかったこと。きっと予選を彼女と100分の1秒差で泳いだから彼女の方が意識し始めたのでしょう。それと決勝で彼女はキャップをかぶって体を揺らす動作をしていたんです。それは彼女のいつものルーティンなんですけど、その中にも緊張している様子が見えた。彼女も緊張するのだから私が緊張したっておかしくない。そう思いました」。結果は五輪前の自己ベストをたった1日で4秒43も短縮。2分26秒65の五輪新(当時)でノール、林莉(中国)を破って金メダルを獲得した。14歳の若さにレース後の名言も加わって帰国後は国民的なスターに変身していた。

 「帰ってきてすぐは冷静だったんですけど、生活するうえで今まで通りいかなくなってからは疲れちゃいました。普通に生活できないから困ったことだらけ。ストーカーみたいに家の前に待ち伏せする人が何人もいて、しばらく母の車で登校していました。バルセロナ五輪直後に新潟であった全中(全国中学校水泳競技大会)にはコーチだけでなく校長先生も同伴。人が殺到して危険だということで控室も他の選手と別室になったりで、泳ぎに集中できる状況ではありませんでした」

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 金メダル獲得後のコメントに対しても温かい反応ばかりではなかった。「幸せだと感じるのは何歳でもいいじゃんと思うんですけど、『まだ14年間しか生きてきていないのに』とか言われて…。あの言葉ばかりが独り歩きして『なんであんなことを言っちゃったんだろう』と思いました」

 環境の激変による影響は同じ平泳ぎで3歳違いの姉・敬子にまで及ぶ。「姉は高1のインターハイでは優勝したのに(五輪後の)高2、高3では決勝にも残っていない。本人は私のせいではないと言いますけど、『お姉ちゃんなのに遅い』とか言われていると聞いたし大変だったと思う。私が妹じゃなかったらそんなことは言われないだろうし…。両親だけでなく姉までもが大変な思いをして、『金メダルなんて取らなければ良かった』と思ったりもしました」

 「また注目されたくない」と好成績を挙げることに恐怖心すら覚え始めたバルセロナ五輪後は、代表落ちも経験。後に北島康介、萩野公介を金メダルに導いた平井伯昌(のりまさ)コーチには「もう辞めたい」と禁断の言葉も口にした。しかし2年後の高校1年の夏、米カリフォルニア州サンタクララに遠征。中学1年のバルセロナ五輪前年にも合宿し、自己ベストを5秒近く縮めた思い出の地を再訪して考えが変わった。

 「前回来た時はこんなに沈んでいなかったし、もっと記録にも貪欲だったと思い出しました。それに同じ中2トリオでバルセロナに行った稲田法子ちゃんがそこで日本記録を出した。それを見て、もう一回水泳に向き合おうと思ったんです。オリンピックが終わってから初めて『すごく勝ちたい』っていう目標を持つことができました」

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 2度目の五輪だったアトランタ大会では10位。しかし水泳に対するひた向きさ、向上心を取り戻しての結果に納得できている自分もいた。「よくここまで頑張ったなと思えました。帰国して女子マラソンの有森裕子さんが『自分で自分を褒めたい』って言っているのをテレビで見て、私も一緒だって。2大会連続でメダルを取った有森さんと自分を比べちゃ駄目なんですけどね」。復活した理由がそうだからこそ、引き際も心の面を大事にした。

 アトランタ五輪翌年、ゲスト解説で呼ばれたパンパシフィック選手権。「アトランタに平泳ぎで一緒に出た田中雅美ちゃんの泳ぎを見て『雅美ちゃん、本当に頑張って』って心から応援している自分にびっくりしました。悔しさがない。争う気持ちがない私は競泳選手じゃないと思った」。体力の限界が理由ではなかった。バルセロナ五輪から6年後。より重視してきた闘争心の喪失を実感すると、潔く競技生活から離れた。今でもそこに後悔はない。 (千葉亨)

金メダル獲得直後にほほ笑む鈴木陽二ヘッドコーチ(当時)(左)と岩崎恭子(鈴木陽二さん提供)

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鈴木HC「あれ、取っちゃった」

 1988年ソウル五輪100メートル背泳ぎ金メダルの鈴木大地を育て、バルセロナ五輪では日本代表ヘッドコーチを務めた鈴木陽二でも、岩崎の活躍は想像以上だった。

 「長崎宏子さんの日本記録(2分29秒91)を更新して決勝に残ろうというのが本人の目標。それなのに予選で27秒台、決勝で26秒台と一気に記録を短縮したから。金メダルの瞬間は『あれっ、取っちゃったよ』というのが率直な気持ちでした」

 ただ素質の高さは一目で分かった。「キックのとき足の指は普通そろえて伸びたままなのに、彼女の場合は水をつかもうと、指が開いてわしづかみのようになっていた。教えなくても本能でできる。この子は天才だと思った」。また岩崎の快挙が後進に与えた効果も計り知れないという。「大地が(五輪4大会ぶりの)金を取って日本人でもやれるという感じになり、次の恭子ちゃんでたぶん日本の誰もが『俺もいけるんじゃないか』と思うようになった。この意識改革が一番大きいし、それが今につながっている」とたたえた。

 

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