トップ > 中日スポーツ > スポーツ史 平成物語 > 記事

ここから本文

【スポーツ史 平成物語】

3・11の悲劇から11・3歓喜の涙 マー奇跡の連投で楽天日本一

2018年7月27日 紙面から

巨人を破り初の日本一を決め、捕手嶋(左)と抱き合って喜ぶ田中=2013年11月3日、Kスタ宮城で(佐藤哲紀撮影)

写真

第2部 プロ野球編(4)

 2011(平成23)年3月に発生した東日本大震災。未曽有の災害によって多くの尊い命が奪われ、街は壊滅的に傷ついた。そんな東北の復興の灯火になるべく、平成の新興球団・楽天は奮闘。創設9年目の13年に初の日本一に輝き、ファンとともにあるプロ野球の底力を見せつけた。ハイライトは日本シリーズ第7戦、監督・星野仙一によって最後のマウンドを託されたエースの田中将大が、胴上げ投手に。長く語り継がれる感動のクライマックスとなった。 (文中敬称略)

 日本一のマウンドに田中が走る。東北の人は涙を流し、登場曲「あとひとつ」の大合唱で送り出す。そして、勝った。「3・11」の悲劇は「11・3」の歓喜につながった。

 創設1年目の2005年、ロッテとの開幕カード第2戦では0−26という記録的大敗。そんな楽天が9年目にして初めてパ・リーグを制し、日本シリーズで巨人をも打破。監督の星野もまた、自身初となる日本一の胴上げに涙した。

 田中は前日2日の第6戦に先発。3勝2敗と王手をかけ、舞台を本拠地のKスタ宮城(現楽天生命パーク)に移した大一番。シーズン24勝を挙げ、1度も負けなかった男が9イニング、160球を投げて完投負けを喫した。

 そのショックを転化させるように、星野は試合後のミーティングで「ワシにうれし涙を流させてくれ」と頭を下げた。その時点で星野の頭に田中の連投はない。その一方、「もしも」に備えて動き始めている男たちもいた。

 コンディショニング担当の星洋介はトレーナー室にいた。田中の試合後のケアを担当するのは、いつもの仕事。下半身を中心に状態をチェックしていると、寂しそうな雰囲気を漂わせていた田中が口を開いた。「何も言われなかったら、いく準備をします」

 田中は投げたがっている。星はそう感じた。ただ、無条件ではGOサインを出せない。「炎症とかがあったら止めようと思っていました」

 翌3日。第7戦の試合を控えた午後1時、星が再び体に触れる。今度は肩、肘が中心。この時に明らかな異変を感じた。

 「表現するのは難しいんですが…。でも、ずっと触ってきたから分かるんです。その時の田中の筋肉はスイッチが入った状態でした。通常、田中の登板翌日は筋肉が固くなる。車に例えるならエンジンが切れた状態ですかね。でも、違った。アイドリング状態というか…。緊張状態が持続していると感じました」

 まだ戦闘態勢にある。田中はファイティングポーズをとり続けている。そう判断した星は、トレーナーを挟んで投手コーチに連絡を入れた。「田中のことで…」。受けたのは、首脳陣ミーティングの輪に入っていた森山良二だ。

 ブルペン担当コーチがトレーナー室に入るのを待ち、田中が「(最終戦で救援登板した)CSのときよりは良いです」と状態を伝え、星がつないだ。「1イニングであれば投げられる状態です」

 この3者による密室での会話によって、連投に向けた動きは加速した。

 慌ててミーティングに戻った森山は、その旨を報告。星野の厳しい視線が佐藤義則、森山の両投手コーチを突き刺す。「ああんッ? 昨日あんなに投げさせやがって!」

 そうは言っても、第6戦の160球には理由があった。後日、星野の説明はこうだ。「田中が代わろうとしないんや。なぜか。オレも考えたよ。あ、そうか! コイツ、これが日本で最後の登板になるんだなって」

 そうした会話が当事者間で交わされたわけではない。ただ、星野はそう受け止めた。シーズンオフのメジャー移籍を希望していることは、チーム内の誰もが知っていた。日本でのラスト登板。だから、負け試合でも最後まで投げさせた。それなのに、翌日に「また投げられる」という。目が点になった。

 試合前の練習中、選手たちの間に「田中がベンチに入るらしい」という情報が流れた。兄貴分の小山伸一郎は、それが登板に備えたものとは考えていなかった。「最終戦だからベンチに入れとこう、という感じかな」。ほとんどの選手が、そう捉えていた。

 雌雄を決する第7戦。試合は楽天ペースで運んだ。打線が3点を奪い、美馬学、則本昂大が8回まで無失点でつないだ。ベンチ担当の投手コーチだった佐藤が苦笑いで振り返る。「田中がベンチの中をうろちょろしてさ。パッと見たら、右肘を温めているんだ。投げたそうな雰囲気を見せていたよね」

 流れは定まった。ブルペンでは田中の投球練習が始まり、女房役の嶋基宏には、星野から「9回は田中、いくぞ」とGOサインが伝えられた。そして、楽天の8回の攻撃が終わり、ベンチを出た星野が投手交代を告げる。球審の杉永政信の「誰ですか?」の声に「田中!」と声を張り、場内アナウンスが続いた。

 最後は田中で。第6戦が終わった段階で、森山は、そう考えていた。「シーズンの優勝も、クライマックスシリーズも、最後は田中だった。日本シリーズでも、そういうチャンスがあるのなら田中で締める。それが今年の楽天のストーリーだと思っていた」

 だから、そのゴールに向けて動いた。Kスタ宮城の歓声は涙声に変わっていた。そんな中を、ブルペンを飛び出した田中がマウンドに走る。森山は無意識のうちに背番号18を追い、自分の持ち場を離れてグラウンドの手前まで来ていた。「そんなことは初めてだよ。なぜ、そんなことをしたのか分からない。でも、あの『あとひとつ』を聞いていたら、涙があふれてきて…」

写真

 最下位からの日本一。絶対エースによる奇跡の連投。星が「無理です」と伝えていたら。森山が「止めましょう」と口にしていたら。きっと、あの感動的なエンディングはなかった。小山の目と耳には、田中の試合後の姿が今も残っている。

 「『右腕の震えが止まらない。ヤバイっす』って…。そんな田中は今までに見たことがない。それほど死力を尽くしたんだな、と」。東北の人々の思い、そして田中の思い…。それをしっかり受け止めた男たちがレールを敷き、物語は完結した。被災地に喜びを届けた「11・3」。伝説の主人公・田中はシーズン後に海を渡り、ヤンキースのピンストライプに袖を通した。 (特別取材班)

写真

1996年10月24日、日本一を決めて胴上げされるオリックスの仰木監督=グリーンスタジアム神戸(現ほっともっとフィールド神戸)で

写真

阪神淡路大震災翌年、神戸で胴上げ

 オリックスも被災地を背負って闘った。1995(平成7)年1月、阪神・淡路大震災が発生。大きな被害を受けた地元・神戸のファンにも励まされ「がんばろうKOBE」を旗印に快進撃した。

 地震発生時、球場近くの選手合宿所で就寝中だったイチローは「命の危険を感じた」という。それでも選手は全員無事。精いっぱいのプレーと勝利で喜ばすことをチームの使命とし、初優勝を成し遂げた。だが監督の仰木彬には後悔も。「胴上げを、神戸の皆さんと味わいたかった」。優勝の懸かった本拠地ゲームを落とし、日本シリーズでもヤクルトに屈した。

 翌96年も圧倒的な強さで連覇。歓喜は念願の神戸で、しかもイチローのサヨナラ打で決めた。日本シリーズの相手は巨人。仰木は毎試合、メンバー交換のギリギリまで敵の先発投手を探った。「マジック」と呼ばれた采配の核を成すのが、日替わり打線。機能させるためには、相手先発は右か左か…。情報の入手は死活問題だった。

 オリックスは第3戦、仰木は巨人先発を右のバルビーノ・ガルベスと読んで、左打者を厚めにした。見事的中し、流れをつかんで勝利。王手をかけた第5戦も右の斎藤雅樹と読んで日本一。リーグVに続き、至福の時を神戸のファンと共有した。

 

この記事を印刷する

PR情報

閉じる
中日スポーツ 東京中日スポーツ 中日スポーツ 東京中日スポーツ 中日スポーツ購読案内 東京中日スポーツ購読案内 中日スポーツ購読案内 東京中日スポーツ購読案内 中日新聞フォトサービス 東京中日スポーツ