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【スポーツ史 平成物語】

トルネードが切り開いた メジャーNOMOロード

2018年7月25日 紙面から

(左)トルネード投法で力投するドジャースの野茂=1995年6月(ロイター・共同) (右)2度目のドジャース時代=03年(共同)

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第2部 プロ野球編(2)

 日本のプロ野球と米大リーグは、平成に入ってかなり身近な立ち位置となった。きっかけは1995(平成7)年、野茂英雄のメジャー挑戦だ。任意引退という形で近鉄を飛び出し、入団テストを経てドジャース入り。1年目から大活躍し、全米にトルネード旋風を巻き起こした。「NOMO」の残した足跡が道となり、その後、日本のトップ選手たちが続いた。 (文中敬称略)

 ドジャースの帽子と球団ロゴの入ったTシャツ姿。遠目には球団関係者の家族か知り合いが、憧れのドジャースタジアムでキャッチボールを楽しんでいるように映ったかもしれない。大リーグは労使間の年俸闘争に端を発したストライキの真っ最中でもあり、その場に居合わせた報道陣は3、4人の日本人記者。だが、これこそ和製メジャーリーガーのパイオニア、野茂英雄のドジャース入団テストだった。

 近鉄との契約問題がこじれ、当時の指揮官・鈴木啓示との確執も表面化。任意引退選手として「メジャー挑戦」を表明した野茂が突如、成田空港からロサンゼルスに飛んだのが1995年1月30日。ロス到着時も待ち受ける報道陣の質問にひと言も発せず、後見人のダン野村とともに車で街に消えて4日後、2月3日(日本時間4日)のことだった。

 近鉄で5年間同僚だった吉井理人は「実力的には絶対に通用する」と、その力を認めながらも「(メジャーに)行くのは無理」と思ったそうだ。「僕もいつかはアメリカに行ってみたいと思っていた。でも、そんなことをいうと『アホちゃうか』と言われる時代。ルールもなかったし」という。

 93年オフに日本でもFA制度が導入されたが、海外挑戦を口にする者など誰もいない。今のようなポスティング制度もなく、60年代に村上雅則がサンフランシスコ・ジャイアンツで投げてはいるが、まだまだ日本人選手にとって大リーグは、遠い海の向こうの話でしかなかった。

 それは迎え入れる米国側も同じだった。プロ初年度から4年連続で最多勝、奪三振王のタイトルを手にしたといっても、所詮は日本でのこと。日本人が、どこまで通用するのか? 揶揄も込めて野茂のことを「ミステリーマン」と称する米紙もあった。

ドジャース入団発表でオマリーさん(左)と握手する野茂=1995年2月、ロサンゼルスで(共同)

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 そんな野茂獲得に最も積極的だったのがドジャースだった。球団会長のピーター・オマリーは米球界きっての親日家。中日、巨人がフロリダ州ベロビーチのドジャースタウンで春季キャンプを行った縁もあり、日本の野球への理解も深い。キャッチボールの相手を務めた投手コーチのデーブ・ワレスが「軽く投げているのにホップしてくる。良い素材だ」と評した時点で、野茂の入団はほぼ内定した。

 その後も隠密交渉を進め12日に契約。翌13日にはロサンゼルス市内のホテルに日米約200人の報道陣を集め、盛大な入団発表が開かれた。「夢がかなう一番近い立場になれてうれしい」。背番号16のユニホームに身を包んだ野茂も晴れやかな笑顔を見せた。

 それでもマイナー契約。2億円という契約金こそ破格だったが、年俸は980万円。近鉄最終年の1億4000万円と比べても大幅減。これが、日本からの新参者に対する米球界の評価だった。

 送り出す日本側も球界、ファン挙げて応援ムードだったわけではない。元々、口数が少なく誤解を招きやすい男。近鉄を退団する際も「わがままを通した」との見方をされた。渡米後の宿泊先、日程も非公開で、報道陣とはギクシャクした関係が続いた。だが、孤独な挑戦者が、本場の野球ファンに衝撃を与えるのに、そう時間はかからなかった。

 招待選手としてメジャーキャンプに参加。紅白戦、オープン戦で結果を残すと、当初「あの程度のコントロールでは2Aクラス」と手厳しかった米紙も「開幕メジャーは確実」「新人王も狙える」と次第に論調を変えていった。ようやく232日間に及ぶストライキが終結し4月25日、一月遅れで大リーグが開幕。野茂もメジャーの一員としてその日を迎えた。

 初登板は5月2日のジャイアンツ戦。先発で5イニングを被安打1、7奪三振で無失点。大きく体をひねり、打者に背中を向ける独特の「トルネード投法」で次々と大男たちのバットに空を切らせる快投は、長期ストで野球に飢えていた本場のファンに強烈なインパクトを与えた。

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 その後も野茂は好投を続け、1年目は13勝6敗で新人王と最多奪三振のタイトルを獲得。翌96年は9月17日のロッキーズ戦で無安打無得点試合を達成するなど16勝11敗。7球団に在籍した12年間のメジャー成績は123勝109敗。2度の最多奪三振、2度の無安打無得点試合を成し遂げ「NOMOマニア」と呼ばれる熱狂的ファンをも誕生させた。

 新人王の表彰式で「日本からもっと選手が来て、大リーグでプレーすることが当たり前になればいい」と語った野茂。その言葉通り、その後、多くの選手が和製大リーガーとして活躍。今やメジャーリーガーは日本の野球少年にとって現実味のある夢となっている。

 野茂の渡米から3年後の98年。FA選手として初めてメジャーに挑戦したのが、当時は日本人のメジャー挑戦など夢物語と思っていた吉井だった。「もう日本では野球ができなくなるかもしれない状況で、それでも退路を断って挑戦したのはすごいし、野茂じゃなきゃできなかった。そのおかげで(ポスティングなどのルールができ)今、日本人メジャーリーガーはいるわけです」

 吉井が投手コーチを務める日本ハムからは今季、大谷翔平が二刀流を引っ提げ海を渡った。野茂の活躍に誰もが疑心暗鬼だった23年前。米国記者の「なぜ、周囲や家族の反対を押し切ってまで、メジャーに挑戦するのか?」との問いに野茂は短く、こう答えている。

 「This is My Life」。これは僕の人生。当時26歳の右腕がたった1人、信念と覚悟を持ってこじ開けた扉。そこを通ってメジャーに挑んだ日本人選手は野茂以降、今年で50人を超えた。 (特別取材班)

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 ▼野茂英雄(のも・ひでお) 1968(昭和43)年8月31日生まれ、大阪市出身の49歳。成城工から新日鉄堺に進み、88年ソウル五輪では銀メダル獲得に貢献。大リーグはドジャースを皮切りにタイガース、レッドソックスなどを渡り歩き、史上4人目となる両リーグでの無安打無得点試合を達成。2008年途中に引退を表明した。通算成績はNPB(5年)が139試合登板、78勝46敗1セーブ、防御率3.15、MLB(12年)は323試合登板、123勝109敗、防御率4.24。現在は現役時代に設立した「NOMOベースボールクラブ」で野球振興に携わるほか、大リーグ・パドレスの球団アドバイザーも務める。

史上最多8球団の“野茂取り”は近鉄仰木監督(右端)が引き当て大喜び=1989年11月、東京都内のホテル

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8球団競合で近鉄入団 いきなり18勝

 野茂は平成のプロ野球が生んだ最初のスター選手かもしれない。近鉄に1位指名されたのは1989(平成元)年のドラフト会議。史上最多の8球団による競合を、監督の仰木彬が残りくじで引き当てた。

 持ち球は直球とフォークのみ。初勝利を挙げた90年4月29日のオリックス戦(西宮)では1試合17奪三振の日本タイ記録(当時)。終わってみれば18勝で投手タイトルを総ナメにし、沢村賞も獲得した。

 近鉄本社は独特な投球フォームの愛称を公募。約2カ月で5927通の応募があり、英語で竜巻を意味するトルネードに決まった。ドクターKも定着し、スタンドでは三振を示すKの白い文字が赤い紙に書かれた「Kボード」が次々と揺れた。

 

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