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【スポーツ史 平成物語】

安打製造機・イチロー伝説 中日とのOP戦満塁弾から始まった

2018年7月24日 紙面から

1994年3月28日、プロ野球初の日本人カタカナ統一呼称「イチロー」と「パンチ」初お披露目のオリックス・鈴木(右)と佐藤

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第2部 プロ野球編(1)

 FA制度が導入され、大物選手が次々と海を渡り、2004(平成16)年には球界再編問題に端を発し、日本プロ野球史上初のストライキが決行された。スポーツ史「平成物語」第2部では、プロ野球激動の30年間を振り返っていく。第1回はイチロー誕生秘話。太平洋を股に掛け日米で数々の大記録を打ち立てた天才打者は、どのようにして生まれ、44歳のいま、どう自身の今後を見詰めているのか。まずはイチローが、まだ鈴木一朗だった24年前に時計を戻してみる。 (文中敬称略)

 1994(平成6)年3月26日は、のちに日米の野球界を席巻する男の改名が決まった日。希代の安打製造機・イチローの伝説はここから始まった。愛知県豊田市で行われた中日とのオープン戦。オリックスの高卒3年目・鈴木一朗は5回、中日のドラフト1位新人・平田洋から中堅左へ満塁弾を突き刺した。

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 ここまでオープン戦は全17試合に出場し打率3割4分4厘と好調。開幕2週間前に放ったグランドスラムは、新指揮官・仰木彬ら首脳陣の評価を決定づけるものとなった。「地元の後輩だし、プロの厳しさを教えないとね」。鈴木は試合後、豊田大谷高出身の右腕について聞かれ、いたずらっぽく笑った。

 そんな20歳の大活躍を受け、打撃コーチの新井宏昌が仰木に妙案をぶつけた。「鈴木の登録名を『一朗』に変えませんか? 周りの選手もそう呼んでますし」。日本人選手の下の名前をグラウンドネームにするなど、当時は思いも寄らない発想。だがパ・リーグの宣伝部長を自任していた仰木は「お、それええな!」。二つ返事で採用が決まった。

 「監督も私もオリックス1年目。選手を売り出し、チームを盛り上げたかった。インパクトのある名前は覚えてもらえるから、パンチパーマがトレードマークだった佐藤(和弘)は『パンチ』に。鈴木もよくある名前だけど、改名の理由はそれだけじゃない。活躍しそうな雰囲気が漂っていたから」

 四半世紀前の思いつきを振り返る新井は、この年までシーズン単打のプロ野球記録保持者。元巧打者はその嗅覚で、鈴木の非凡なセンスを見抜いていた。

 振り子に例えられた独特の打撃フォームで、糸を引くような打球を次々に放つ。豊田で放った満塁弾も同様だった。対戦した中日の選手では途中出場した彦野利勝が、以前から高い能力に気付いていた。

 「92年だから彼がプロ入りした年。私は膝の故障で2軍での調整が長かった。その時にウエスタン・リーグの首位打者を一時争った。当時の印象は『とんでもない選手が出てきたな』と。春先からどんなボールに対してもタイミング良く打ち返し、とにかく打ち損じが少ない。思い切りも良かった」。彦野自身も高校からプロ入り。自らと照らし合わせても、とても1年目とは思えなかった。

 「イチロー」で迎えた94年のダイエーとの開幕戦は2番・中堅で1安打。その後も着実に安打を重ね、打率は6月末に一時4割を超えた。対戦が一回りすれば、相手投手はタイミングをずらすなど対策を練ってきた。それでも新井によれば「それを上回る対応力がイチローにはあった」と振り返る。

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 最終的にはパ・リーグ新の3割8分5厘。自身は「増えたり減ったりしない」安打数にこだわり、プロ野球初の200安打超え。210安打に達した。この年、チームは優勝を逃したものの、イチローは打者として史上最年少でのMVPに輝いた。

 以降、7年連続で首位打者を獲得。新井は「背筋を伸ばして構えたり、振り子を小さくしてみたり。結果を出しても、彼はそこにとどまらない。常に高みを目指す、求道者のようだった」と述懐する。95年は首位打者に加え打点王。さらに25本塁打と三冠王も視界に捉え、仰木に「何にでも変われるジョーカー」と言わしめた。

 そんな変幻自在な打撃はパ・リーグ投手陣をことごとく苦しめてきたが、中でもイチローの顔を見るのさえ嫌だったのが98年のダイエーのドラフト1位右腕・永井智浩だろう。通算31打席で23打数13安打。被打率5割6分5厘は、5打席以上の対戦で最も高い。

 「僕の中ではもっと。7割くらい打たれているイメージが残っている」

 2000年8月15日には、福岡(現ヤフオク)ドームで同点弾を許した。「それまでの3打席を抑えて、1点リードで9回の先頭打者がイチローさん。普通なら抑え投手の出番だが、ベンチが僕に賭けて…。でも、やっぱり打たれた」。同年6月、盛岡での試合では1回1死二、三塁から4番のイチローを敬遠。「ベンチの指示。初回の敬遠は生涯初めて」。続く外国人選手に満塁弾を浴びたことも鮮明に覚えている。

 この年限りでイチローは日本のプロ野球に別れを告げた。メジャー18年目となった今季はマリナーズに復帰。5月には現役を続けながらの会長付特別補佐に就任した。2歳下の永井は「自分は引退してすでに10年以上。今もやっているイチローさんは、すごいとしか言えない」と感服する。

 鈴木一朗が生まれた73年10月22日、セ・リーグでは巨人が阪神に勝って9連覇を決めた。昭和の偉業がつくられた記念日に、平成の世を疾走する主役が生を受けたのは、不思議な巡り合わせだ。

 日米でプロ27年、築いた金字塔は数知れず。それでも44歳は飽き足らず、立ち位置はどうあれ「最低でも50歳まで現役」を掲げる。「自分がアスリートとしてどうなっていくか。僕は野球の研究者でいたい」。昇華した申し子は、次の時代も見据えている。 (特別取材班)

1994年3月26日・豊田・開始13時・観衆9000人

オリックス 000041101|7

中   日 010010000|2

(オ)伊藤敦、バラー、○小林、伊藤隆−中島、高島、高田

(中)今中、●平田、小島、鹿島、ヘンリー−中村、吉鶴

本塁打 大豊(中)鈴木、岡田(オ)

 ▼イチロー(本名・鈴木一朗=すずき・いちろう) 1973(昭和48)年10月22日生まれ、愛知県豊山町出身の44歳。180センチ、78キロ、右投げ左打ち。愛工大名電高からドラフト4位で92年にオリックス入り。94年から7年連続でパ・リーグ首位打者。マリナーズ1年目の2001年にア・リーグMVPなどを獲得。04年には年間安打新記録。12年7月にヤンキースへ移り、15年から昨季までマーリンズ。16年は6月にピート・ローズの持つメジャー通算最多の4256安打を日米通算で上回り、8月にはメジャー3000安打。06年、09年WBC代表。

イチローが右打ちになっている記念ボール

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裏焼きの「右打ち」男、MLB大出世

 イチローは2001(平成13)年、FA取得前の選手がメジャーに挑戦できる新ルール・ポスティングシステム(入札制度)を使って海を渡った。それまで日本人の大リーグ野手は皆無。パイオニアとしての意義もかみしめる小柄な男に対し、現地には当初、懐疑的な見方があった。

 「そもそも、何者?」感は、グッズのいいかげんさにも表れた。開幕直前、シアトルの空港で売られていた公式ライセンスの記念ボールには、間違って裏焼きされた「右打ちのイチロー」がプリントされていた。そんな謎の男が開幕から安打を量産。終わってみれば1年目から首位打者、盗塁王のタイトルを獲得し、マリナーズの大躍進に貢献。新人王、シーズンMVPにも選出され、ヒーローになった。

 以降、10年連続でシーズン200安打以上。ハイライトは「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただ一つの道」などの名言も残した04年だ。シーズン安打記録を84年ぶりに更新。塗り替えた直後、球場のショップには安打数新記録「258」が記されたグッズが登場したが、販売は一瞬だった。最終的に262安打まで伸ばしたためだ。

 その後ヤンキースに移籍し、マーリンズ2年目の16年は記録ラッシュとなった。6月に日米通算でピート・ローズの持つメジャー通算安打を抜き、8月のロッキーズ戦でメジャー3000安打。42歳は敵地コロラドのベンチで涙した。この年、本拠地マイアミでは安打カウンター付きの珍しい首振り人形がファンに贈られた。まさかの右打ちから大出世したイチローは、野球殿堂入りが確実視されている。

(左)イチローの歩みをたどる記念グッズ。左から誤プリントの記念ボール、カウンター付き人形、最多安打記録Tシャツ(右)年間最多の258安打を達成し祝福を受けるイチロー=2004年10月1日、セーフコ・フィールドで(AP・共同)

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