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【スポーツ史 平成物語】

河合楽器、都市対抗V3カ月後に・・・ バブル崩壊後名門が相次ぎ休廃部

2018年12月27日 紙面から

(左)2001年の休部当時を振り返る河合楽器元監督の村瀬耕次さん=名古屋市内で(川越亮太撮影)(右)1993年の休部当時について話す元熊谷組監督の清水隆一さん=東京都内で(川越亮太撮影)

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第7部 アマ野球編(6)

 昭和では夏の都市対抗大会を中心に隆盛を誇った社会人野球。しかし、平成に入ると取り巻く状況が一変した。バブル崩壊から始まった長期不況の影響をもろに受け、休廃部に追い込まれるチームが相次いだのだ。熊谷組、プリンスホテル、いすゞ自動車、大昭和製紙、河合楽器、神戸製鋼…。都市対抗大会や日本選手権を制し、「名門」と言われていたチームも決して例外ではなかった。 (文中敬称略)

 2001(平成13)年11月、社会人球界に衝撃が走った。その年の都市対抗大会で優勝した河合楽器(静岡)が同月末での野球部休部を発表。21世紀最初の大会を制してから、わずか3カ月後のことだった。当時の監督だった村瀬耕次(60)が振り返る。

河合楽器野球部の都市対抗大会優勝を伝える、2001年8月1日の中日スポーツ

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 「7月31日に優勝して8月1日に浜松へ帰った後、会社から呼ばれた。その時は新卒者の内定を取り消してほしいという話だったが、10日ほどたって情勢が変わった。部の存続を考えてもらわなければいけない、と通告されたんだ」

 役員会で反対したのは、野球部長だった副社長だけだったという。都市対抗大会優勝を考慮して1年間だけ延期してほしい、という申し入れも聞き入れられなかった。

 「平成の休廃部」の端緒は1993(平成5)年の熊谷組(東京)だった。都市対抗大会に34度出場した名門が経営改善策の一環で休部。「僕が入社したころは『野球部は絶対につぶれない』といわれていた。予想だにしなかった」と振り返るのは、最後の監督だった清水隆一(59)だ。

 熊谷組や河合楽器は経営不振がささやかれていた。それでも、突然の休部通告は寝耳に水。東海地区でライバルのヤマハなどとしのぎを削ってきた村瀬も「部の本体は大丈夫だといわれていた」というだけにショックは大きかった。

河合楽器野球部の休部を伝える、2001年11月3日の中日スポーツ

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 平成最初の都市対抗大会で優勝したプリンスホテル(東京)も00(平成12)年限りで廃部となった。最終年の指揮を執った足立修(54)=現長野・松商学園高監督=は「まさかというものがありました」と語る。都市対抗大会優勝時の主将だった足立は「西武グループはプロ野球やアイスホッケー、フィギュアスケートのアイスショーをやってたし、堤(義明)オーナーも会社もスポーツに理解がありましたから」と述懐。廃部に向かっているという雰囲気は感じなかったという。

 多くのチームが活動停止に追い込まれたきっかけは、バブル崩壊だ。企業は多額の有利子負債の圧縮など後始末に追われた。さらに、昭和の不況と違った側面が平成にはあった。金融機関の経営悪化だ。企業は次々に再編へとかじを取り、市場はどんどん縮小。歩調を合わせるように、個人消費もデフレの進行で低迷し続けた。

 社会人野球を支えた企業も例外ではない。河合楽器はバブル期に建設したゴルフ場が多額の負債を計上。プリンスホテルはリゾート地を訪れる観光客の減少に苦しんだ。ただ、社会人野球を統括する日本野球連盟で競技力向上委員を務めた清水は、根本的な理由が表面化した結果だとみている。「人員整理となると、のほほんと野球をやっているみたいな声が上がらないように、と会社が考えるのも当然でした」。多くの企業がリストラを進め、正社員を減らして非正規雇用の人間を増やした。

プリンスホテルで最後にチームの指揮を執った足立修さん(右)は現在、母校の長野・松商学園高で監督を務めている=長野県松本市内で(川越亮太撮影)

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 そのころ、多くの企業で野球部員はフルタイムでの社業に従事していなかった。清水は「これが社会人野球の一番の問題」と指摘する。人件費だけで億単位のカネがかかり、さらに練習グラウンドの維持費やチーム運営費なども必要。不景気の中で生き残るため、それまで広告費や社員の福利厚生費用として計上してきた予算を企業は見過ごせなくなった。

 人事担当を務めた経験がある足立は「もう福利厚生でチームを持っていられない時代ですからね」と寂しそうだ。村瀬も「業績のいい関連会社に在籍させた選手もいたが、最後は抱えておくことができなくなった」と話す。“昭和的なもの”よりも「選択と集中」という企業の論理が優先されていった結果、社会人チームが次々と消えていった。 (川越亮太)

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 ▼バブル景気 1986(昭和61)年ごろから91(平成3)年ごろにかけての好景気を指す。85年のプラザ合意で円高が進行。行き過ぎを回避するため公定歩合が切り下げられ、各金融機関の資金量が増大した。不動産を中心に融資が行われた結果、地価や株価が急上昇。89年の東京株式市場大納会では3万8957円の史上最高値を記録した。やがて、日銀の金融引き締め策などのため株価や地価が暴落。企業や大手金融機関は不良債権の処理に追われるようになった。

「企業主体&地域で支える」

クラブチーム新たな流れ

 企業チームが休廃部で減った一方、平成ではクラブチームが増加した。日本野球連盟の加盟チーム数に関する資料によると、1993(平成5)年は企業148、クラブ169とほぼ同数だったが、2003年は企業89、クラブ226。今月10日現在の統計では企業94、クラブ262となっている。

 平成の象徴的なクラブチームが、近鉄や米大リーグで活躍した野茂英雄が設立したNOMOベースボールクラブだ。古巣の新日鉄堺が94(平成6)年に休部。社会人野球の縮小を憂慮した野茂が資金の大半を出して03年にNPO法人を設立し、翌年から活動を開始した。創設2年目には都市対抗大会初出場。その翌年には日本選手権にも出場した。

 チームを失った企業チームの有志がクラブチームをつくることもある。河合楽器のメンバーは02(平成14)年に浜松ケイ・ベースボールクラブ(現浜松ケイ・スポーツBC)を設立。99年に活動を休止したNTT信越のメンバーは信越硬式野球クラブを立ち上げた。

 その半面、日本野球連盟が「21世紀のモデルケース」の一つとして挙げた広域複合企業型クラブチームは、新日鉄住金かずさマジックと新日鉄住金東海REXの2チームにとどまる。今後のキーワードは地域との密着。現在、母校を指導する足立は「企業が主体となり、地域が支えていくクラブチーム化。これが今後の流れになるんじゃないでしょうか」とアイデアを提示する。

同一企業内チームの統合も

 チームの休廃部ではないが、同一企業内で複数チームを統合する動きも平成では目立った。1994(平成6)年には新日鉄の経営合理化で室蘭(北海道)、堺(大阪)、光(山口)の3チームが休部し、選手は八幡(福岡)や名古屋などへ移籍。その後、2012(平成24)年にはすでに野球部が廃部となっていた住友金属と合併。チーム名も、社名と同じ新日鉄住金となった。

 他にも、NTTは99年に全国の11チームを東日本と西日本の2チームに再編。かつては複数チームが活動していた東芝、王子、日本通運なども現在は1チームだけになっている。

 企業の合併に伴うチームの統合もあった。NKKと川崎製鉄の経営統合で2002(平成14)年にJFEホールディングスが設立。NKK(広島)と川崎製鉄水島(岡山)も統合され、JFE西日本となった。三菱重工は01年に三原(広島)がクラブ化され、その後に解散。日立製作所と事業統合した14年には横浜が三菱日立パワーシステムズ横浜と改称され、17年からは長崎を統合している。

 

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